国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)新原理コンピューティング研究センター、不揮発メモリーチームの野﨑 隆行 研究チーム長らは、フッ化リチウム(LiF)と酸化マグネシウム(MgO)を組み合わせたトンネル障壁層を用いた新構造の磁気トンネル接合素子(以下、「MTJ素子」)を開発し、磁気メモリー(MRAM)の記録保持特性の指標となる垂直磁気異方性の改善に成功した。MTJ素子は1ナノメートル(100万分の1ミリメートル、以下「nm」)程度のトンネル障壁層を磁性薄膜でサンドイッチした構造からなり、磁性薄膜の磁化の向きによって情報を半永久的に保存できる。この特性を利用することで待機電力を必要としない不揮発性メモリーが可能となり、既存のノイマン型コンピューティングだけでなく、脳の構造や情報処理方式を模倣して高度情報処理を目指す脳型コンピューティングへの適用も検討されている。脳型コンピューティングでは膨大な情報処理を求められるため低消費電力性と高い情報の記録保持特性の両立が重要となる。低消費電力化の観点では、従来の電流書き込み型MRAMと比較して2桁の消費電力低減が期待される電圧書き込み型磁気メモリーに注目が集まっているが、一方で非常に薄い磁性層を用いる必要があるために高い記録保持特性の確保が課題となっていた。
今回トンネル障壁層に、LiFとMgOを組み合わせた複合トンネル障壁層を用いた新構造のMTJ素子を開発した。鉄(Fe)とMgOの間にわずか1~2原子層の非常に薄いLiFを導入することで、Feの磁化の向きが膜面垂直方向に安定化し、垂直磁気異方性がMgOのみを用いた従来構造より約2倍に向上することを見出した。この新構造MTJ素子は電圧書き込み型MRAMにおいてもギガビット級の大容量化を可能とし、低消費電力性と高い記録保持特性を必要とする脳型コンピューティング用MRAMの開発を加速する技術として期待される。なお、この技術の詳細は、2022年1月28日付で学術誌NPG Asia Materialsにオンライン掲載される。
今回開発したMTJ素子の断面TEM像(左)と情報保持特性の向上効果(右)
モノのインターネット(IoT)などの技術革新により、あらゆる電子機器がインターネットでつながり、IT機器のデータ処理量は増大の一途をたどっている。特に人工知能(AI)の活用はこれらの技術において重要である一方、取り扱う情報量の増大を加速し、それに伴う電子機器のエネルギー消費量が課題となっている。AI技術の高機能化、低消費電力化を目指すアプローチとして脳型コンピューティングが最近注目されている。脳型コンピューティングは、脳におけるニューロンとシナプスの活動を同様の機能を有する電子素子などで模倣する試みであるが、シナプスは情報の重要性を"重み"として記憶するため、その再現にはメモリー機能が必要となる。しかしながら既存のメモリーとして利用されているSRAMやDRAMは情報処理を行っていない待機時にも電力を消費する揮発性メモリーであるため、消費電力低減の障害となることが懸念されている。この課題を解決するアプローチとして期待されているのが、電源を切っても情報を失わない、つまり待機電力が不要な不揮発性メモリーの導入である。中でも磁性の特徴を利用して不揮発性を付与するMRAMは、高速性や高い繰り返し動作耐性、既存の半導体プロセスとの高い親和性などを兼ね備え、ノイマン型コンピューティングだけでなく、脳型コンピューティングへの適用可能性を有する不揮発メモリーとして期待されている。
産総研では、これまでにMRAMを実現するコア技術として、FeとMgOの接合を基本構造とする高性能MTJ素子を開発し、量産技術化への橋渡し研究においても世界をリードしてきた。(関連記事参照)
MTJ素子はそれぞれの膜厚が数nm程度の磁性薄膜/トンネル障壁層/磁性薄膜のサンドイッチ構造から構成される(用語解説MTJ素子を参照)。素子両端に電圧を加えた際に流れるトンネル電流の大きさが両磁性薄膜における磁化の向きの相対角度に依存する特徴を持つ。これは、トンネル磁気抵抗(TMR)効果と呼ばれる。通常は一方の磁性薄膜における磁化の向きを強く固定し(参照層)、他方の磁化の向きのみを変化させる(記録層)ことで情報の書き込みを行い、TMR効果を通して抵抗の違いから情報を読み出す。一度磁化の向きが定まると外からエネルギーを加えない限り半永久的にその向きを維持するため、原理的に待機電力がゼロのメモリーが実現できる。現在は大容量性に優れている理由から、磁化が膜面垂直方向を向いた、垂直磁化型のMTJ素子が主流となっている。
半永久的な情報保存とはいっても、実際には室温、もしくは動作環境での熱エネルギーによって磁化の向きが揺らいでしまい、情報が消えてしまうことがある。高い情報の記録保持特性を達成するためには、熱エネルギーに負けずに磁化の向きを特定の方向に維持する必要があり、これを磁気的熱安定性と呼ぶ。磁気的熱安定性は記録層の体積と垂直磁気異方性を掛けた値が熱エネルギーに対してどれだけ大きいかで議論される。MRAMでは大容量化を進めるほど素子サイズが小さくなるため、一定の記録保持特性を維持するためには垂直磁気異方性を大きくする必要がある。
既存の電流書き込み型MRAMでは、FeとMgOの界面で発現する垂直磁気異方性を利用した垂直磁化MTJが用いられ、現状ギガビット級の電流書き込み型MRAMが製品化されている。一方、次世代技術として、磁化の向きを電圧のみで制御する、電圧書き込み型MRAMが注目されている。電流駆動型と比較して1~2桁小さい書き込み電力が実証されており、不揮発性メモリーでありながらSRAM並みの低駆動電力化が可能であると期待されている。しかしながら電圧により書き込みを行うために記録層膜厚を電流書き込み型より約半分に薄くする必要があり、同じ材料で構成した場合には記録保持特性が半減することが課題となっている。
今回、新材料開発による記録保持特性の改善を目指し、LiFとMgOを組み合わせた複合トンネル障壁層を有する新構造MTJ素子の開発に取り組んだ。
なお、本研究開発は、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術開発機構(NEDO)が推進する「高効率・高速処理を可能とするAIチップ・次世代コンピューティングの技術開発/次世代コンピューティング技術の開発/電圧駆動不揮発性メモリを用いた超省電力ブレインモルフィックシステムの研究開発(JPNP16007)」の委託業務の結果得られたものである。
図1は今回作製したMTJ素子の模式図と断面透過電子顕微鏡(以下、「断面TEM」)写真である。クロム(Cr)下地層上に形成されているFe薄膜が垂直磁化型の記録層である。電圧書き込み型用に設計されており、膜厚は0.5 nm程度の超薄膜である。通常は MgO単層がトンネル障壁層として用いられるが、今回はFeとMgOの間に原子が膜厚方向に1~2層だけ並んだ程度の非常に薄いLiFを導入した。LiFも絶縁体であり、トンネル障壁層として機能する。現在主流となっている電流書き込み型では、Fe/MgO界面で誘起される垂直磁気異方性を増強する方法として、Fe/MgOの界面数を増やすMgO/Fe/MgOなどの多層構造化が行われてきた。しかしながら、電圧書き込み型では非常に薄い記録層を用いるため、積層構造化は容易ではない。今回はFeと接する界面にLiFを導入したLiF/MgO複合トンネル障壁層とすることでFe記録層の垂直磁気異方性が大きく改善することを見出した。
図1 今回作製したフッ化リチウム(LiF)挿入層を有するMTJ素子の構造模式図(左)と断面TEM写真(右)
(黒矢印は各磁性層の磁化の向きを表している)
本実験では、通常のメモリー用MTJ素子とは異なり、無磁界下で記録層の磁化が垂直方向、参照層の磁化が面内方向に向いた磁化配置となっているMTJ素子を作製した (図1模式図、および図2挿絵参照)。 この素子を用いることで、LiF層の導入が記録保持特性の指標となる垂直磁気異方性に与える影響を評価することができる。素子に膜面内方向に外部から磁界を加える(図2挿絵赤矢印)と、記録層の磁化が磁界方向に向けられ、平行磁化状態に近づくことで素子抵抗値が小さくなる。この記録層の磁化を面内方向に向かせる(平行磁化状態にする)ために必要な磁界の大きさ(図2破線)が垂直磁化状態を好む強さ、つまり垂直磁気異方性を反映している。図2は従来構造であるFe/MgO(黒線) と、その界面にわずか0.26 nm(1~2原子層)のLiFを挿入したFe/LiF/MgO構造(青線)のTMR効果を比較した例である。LiFを導入することで抵抗が飽和するのに必要な磁界(=垂直磁気異方性)が約2倍に増加しており、これは記録保持特性が約2倍に改善されていることに相当する。この技術を用いることにより、記録層の薄い電圧書き込み型MRAMにおいても高い記録保持特性が実現可能となった。
図2 磁気抵抗測定による垂直磁気異方性の比較。極薄LiFを挿入することにより垂直磁気異方性が約2倍に改善されている。
垂直磁気異方性を増大させるだけであれば他にもいろいろな材料の選択肢が存在するが、TMR効果を失わずに特性を改善することが実用上は非常に重要となる。今回用いたLiF/MgO積層はMgOトンネル障壁層と同程度以上のTMR比を示し、記録保持特性を向上させるだけでなく、情報読み出しに関しても良好な特性を示す優れたトンネル障壁層であることが明らかとなった。
今回の特性改善により電圧書き込み型MRAMにおいても既存の電流書き込み型MRAMと同程度の記録保持特性が実現でき、ギガビット級の大容量化への道筋が示されたといえる。これはSRAM代替を対象とした仕様に相当する。ギガビット級の電圧書き込み型MRAMは超低消費電力性が強く求められる脳型コンピューティング用メモリーの有力候補として期待される。しかし、DRAM代替などのさらなる大容量化を目指す上では現状の特性は不十分である。下地層や磁性層材料も含めた材料・構造設計により、さらに2倍の垂直磁気異方性増大、および電圧書き込み技術の開発を進める予定である。併せて、フッ化物トンネル障壁層を導入したMTJ素子の量産技術への可用性検討と、製造プロセス開発への展開を目指す。