2020年12月30日掲載
取材・文 中川 隆夫、ブルーバックス編集部
「時を刻む」とはどういうことか?
コロナ禍に明け暮れた今年も、いよいよ残りあとわずか。
年越しの風物詩といえば、日本では除夜の鐘、世界ではニューイヤーのカウントダウンだろう。コロナ禍の影響から自宅で迎える人が多い2020年の年末も、例年と同じでこの時間はやってくる。
ところで、世界中が新年を祝うための"この時計"は、いったい誰が合わせているのだろう? そして「どこの時計」に合わせているのだろう?
この地球上に住むすべての人たちが、(時差があるとはいえ)一度に同じ時間を共有できるのはなぜなのか?
ブルーバックス探検隊は今回、そんな「時間」の疑問を抱えながら、産業技術総合研究所の計量標準総合センターを訪ねた。ここは、「光格子時計」という最先端の時計を、世界で最も安定した運用に成功させたばかり。
「時を刻む」とは、いったいどういうことなのか? ──時間標準研究グループ主任研究員の小林拓実さんと赤松大輔さんに訊ねた。お二人ともに、物理学の若き研究者だ。
標準時をチェックするための時計
基準となる時計は、どこにあるのでしょう?
「私たちが日常的に使う時計は、各国の標準時によって定められています。それぞれの国ごとに時を刻む時計があり、日本でも水素メーザー原子時計が動いています」(小林さん)
あれっ? 光格子時計ではないのですか!?
「光格子時計は、次世代の標準時をチェックするために現在開発中の時計で、まだ研究室のなかで動かしている状態です。
みなさんがお使いになっている腕時計も、そのまま放置しておけば、徐々に時間が狂ってきます。その狂いを修正するために、日本の標準時が存在します。
ところが、その標準時をつくる水素メーザー原子時計も、厳密にいえば少しずつ狂いが生じてきます。したがって、その狂いをチェックする時計が必要となります。現在はその役割を、セシウム原子時計が担っています。
光格子時計は、セシウム原子時計より正確な時計として、『秒』の再定義をするために、各国が競って開発している状況にあるのです」(小林さん)
2億年に1秒のズレを補正
標準時が狂うとみんなが困るのは想像がつきます。でも、どれくらいの狂いが生じるものなのですか?
「世界の標準時をチェックしているセシウム原子時計は、3000万~2億年に1秒くらいのズレを生じるといわれています。現時点で、10のマイナス16乗の精度です。光格子時計は、これよりさらに2ケタ高い、10のマイナス18乗の精度を可能にします」(赤松さん)
ちょっと思い出してみよう。
2019年に1キログラムの定義改定がおこなわれたとき、同じく産総研の臼田孝さんたちを取材させていただいた(記事〈キログラムの定義が変わる!究極の精密測定が科学の「基準」をつくる〉参照)。そのときは確か、1キログラムの分銅に1億分の5程度の誤差が見えてきたから改定に至ったということだった。これは、10のマイナス8乗の精度だ。
つまり、時間の標準は現在でもすでに、このキログラムの定義よりも8ケタも高い精度を誇っている。この圧倒的な精度こそが、「時間」計測の特徴だ。キログラムやメートルなど、基準単位のなかでも特に細かく測れるのが時間なのだ。
それをさらに、精緻化していく……? ムムッ!
世界の標準時はどう決める?
いったん視点を変えて、世界の標準時はどうやって決められているのか。イギリスのグリニッジ天文台が決めている?
「各国が決めたその国の標準時を、人工衛星を使って、世界のセシウム原子時計と比較しながら時間を合わせています。日本でも同じように、人工衛星を通じて標準時が正確かどうかを確認しています。
現実には、セシウム原子時計より精度の低い水素メーザー原子時計が時を刻んでいますが、誤差を含めて、精度の高い時計と比較して時間合わせをおこなっているのです」(小林さん)
つまり、世界標準時は、“世界の合意”によって形成されている。その昔、時間は天体の動きに従っていたが、いまは天体の動きより正確な原子の振動を基準に時計を進めている。「うるう秒」をときどきはさんでいるのは、その天体とのつじつまを合わせるためだという。
1956年までは、地球の自転をもとに1秒を定義していた(1秒=1/8万6400日)。これが10のマイナス8乗程度の精度だった。次に、太陽のまわりを回る地球の公転から1秒を定義し直し(1秒=1/3155億6925万9747年)、精度も10ケタに上がった。
1967年からは、セシウム133原子の固有の振動から1秒を定義することになり、以降の50年をかけて原子時計の精度を上げ、ついに16ケタまで到達した。
「考え方は昔と同じなんです。振り子時計は1秒間に1回振動する数を数えていって、時計が進む。原子時計は、セシウム原子に、ある特定の電磁波と相互作用する性質があり、それを利用して振動数を数えていく。一定数の振動を1秒として定義するなら、より細かく振動してくれる原子のほうが、より精度の高い時計となるというわけです」(赤松さん)
そんなに高精度にしてなんの役に立つの?
しかし、そもそもこれだけ精度の高い時計をなぜ、さらに高精度にする必要があるのだろうか?
「じつは、セシウム原子時計を採用するときも、同じようにいわれていました。そんなに高精度にしてなんの役に立つの、と。
時計はもともと、天体の動きと同調して時間を測ることができれば事足りていたのです。しかし、より精度の高い時計ができることによって、新しい技術が発達してきました。たとえば、カーナビなどで位置情報を正確に測れるのは、セシウム原子時計が人工衛星に積まれているからです。地上の誤差数十センチという精度は、セシウム原子時計がなければ実現しません。
セシウム原子時計ができたときには、誰もこんな使い方ができるとは考えていなかった。光格子時計が実用化された10年後には、いまでは想像もつかない、あっと驚くような技術が出てくるかも知れませんよ」(赤松さん)
で、光格子時計とは?
そのセシウム原子時計を2ケタ上回る精度の「光格子時計」とは、どのような時計なのでしょう?
「光格子時計の原理は、2001年に香取秀俊さん(現・東京大学教授)が提案し、2005年に実現させました。産総研でもこの技術をもとに、実用化に向けた研究をおこなっています。
光=電磁波というのは、電磁場の振動です。この光の電磁場の振動数を数えようというのが、光格子時計の基本的な考え方です。レーザー光を使って格子状の"器"を用意し、そこに計測する原子を孤立させることで振動数を測りやすくしているのです。
香取さんのすごいところは、一度に1000個の原子を格子状の器の中に入れて計測の時間を縮めていること。単一イオン時計という時間標準争いのライバルは、文字どおり1個のイオンを計測するため、光格子時計より効率が悪いのです」(赤松さん)
そこらじゅうを飛び回って動く原子を、格子状の器に閉じ込めるポイントは、香取さんが発見した「魔法波長」のレーザー光だという。
「通常なら、数百ミリワットのレーザー光を原子に当てると、原子の状態が変わるはずなのですが、魔法波長のレーザー光を当てると影響を受けないのです。原子にとっては、捕まっているのに何も感じていないかのような状態で、私たち観察者はこの間に、原子を計測できるということになります」(赤松さん)
話を聞いているうちに、光格子時計の装置がどのようなものなのか、実際に見てみたくなってきた。ちょっと見せてもらえますか?
まる一部屋を占める巨大時計
「いま稼働中なので、慎重にお願いします」と注意を促されて見た装置は、想像以上に巨大なものだった。
部屋いっぱいに電子機器が並んでいる。どの部分が時計なのでしょう?
「ここは70m2くらいの広さがあるのですが、この部屋に収められた装置全体が時計です。まだ実験ベースなので、大きさは考慮せずにつくっています。みなさんが腕につけている時計よりもきわめて繊細で弱いもので、振動や音にさえ影響を受けてしまいます。以前の世代の時計は、2〜3時間しかもちませんでした」(赤松さん)
えっ? たったの2〜3時間で止まるのですか……。
「時計そのものがほとんど自作みたいなものですから、機械のクセみたいなものがあります。それらを克服しながら、2019年10月から2020年3月にかけて、稼働率80%以上という世界最高水準の安定運転に成功しました。光格子時計がいよいよ、実際に使える段階にまできたと考えています」(小林さん)
夜中に叩き起こされて
なかなか気難しい時計ですね……。
「最初は、研究室に人がいるときしか動かしていませんでした。とにかく、すぐに止まるからです。でも、じつは人って結構音を出すもので、本を読んでいてもちょっと足が机に当たったりすると……、もう止まっていたり(笑)」(赤松さん)
「堅牢にしたうえで、装置のクセを見抜きながら長時間の運転にこぎ着けていきました。意外と大きかったのは、止まったときにメールで関係者に知らせるしくみを構築したこと。帰宅後も動かすようになって、夜中に止まるとメールが来て、いちばん近い関係者が調整にいく。週に2回ぐらいは夜中にメールが来るんですよ(苦笑)」(小林さん)
なんだか手のかかる成長期の子供みたい(笑)。
「自動復旧する機能も、取り入れてはいるんです。でも、なにしろ精度が高いので、装置をピタッと戻すには人の力が欠かせない。ただし、当然ながら、戻れば正確に時を刻む時計です」(赤松さん)
2009年にイッテルビウム光格子時計の開発に成功し、10年をかけて実用化のメドをつけたその先には、時間の単位である「秒の定義」を改定する動きがある。
秒を「再定義」するための熾烈な競争
国際度量衡委員会は、1967年に定めた「秒の定義」を、現在のセシウム原子の周波数差から、光に基づく定義へと変更すべく動いている。今より2ケタ高い精度で、「1秒」を定義し直そうというわけだ。
“その時”に備えて、さまざまな研究者たちがしのぎを削っている。
「セシウム原子では、もうこれ以上の精度は出せないだろうと考えられています。そこで、次世代の秒の定義のために、私たちが取り組んでいる光格子時計や、そのライバルである単一イオン原子時計などが、計測器としての候補の座を争っているんです」(赤松さん)
「産総研を含む世界で5機関の光格子時計が、世界の標準時をチェックする能力があるとして、委員会にお墨付きをもらっています。その中の1つとして、定常的に世界の標準時のチェックをおこない、光格子時計の優位性を示していきたいと思っています」(小林さん)
相対性理論を体感できる
キログラムやメートル、アンペアなどの国際単位系のなかでも圧倒的に精度が高い「秒」だが、さらに精度を高めていくことで、新しい世界や技術も見えはじめている。
前出の香取秀俊教授の研究では、アインシュタインの「重力によって時間の流れは変わる」という一般相対性理論をもとに、別々に置いた光格子時計の時間の流れの違いを計測したという。地球の重力を受けている地上で、光格子時計を縦(上下)に2台置き、それぞれの時間の流れが違うことを確認している。実験室レベルでは、1センチの差があれば光格子時計で計測できるのだという。
まさに驚異の計測だが、それこそが、この研究の面白みだと2人は感じている。
「秒や周波数は、物理量のなかでも最も誤差なく測ることができる量です。その点がまず、単純に面白い。『正確性の魅力』がこの研究に入ったきっかけです」(赤松さん)
「18ケタの精度で何かを測定できるものは他にありません。基礎物理定数というものが、本当にずっと一定で不変なものなのかということを、光格子時計が検証することができるのではないか。その点に興味深さを感じています」(小林さん)
私たちの腕時計には正直、18ケタもの精度は必要ない。せいぜい標準時をひんぱんにチェックしているスマホの時計を見ていれば、日常生活では十分に間に合う。
しかし、それらの時計の正確性をチェックしてくれる時計は、ケタ違いの精度が要求されるのだ。
また、生活の時間を測る以上に、細かく正確な時間を刻むことができる時計は、時間とはまた別の計測を可能にしてくれそうだ。精度の高い計測は、そんな可能性を秘めているのである。