2019年12月18日掲載
取材・文 中川 隆夫、ブルーバックス編集部
東京オリンピック・パラリンピックの開催が目前に迫っているが、国際スポーツ競技に欠かせなくなったドーピング検査体制の話はなかなか報道されないものだ。
前回、2016年リオ大会では、ロシアが組織的なドーピングをおこなったとして、大きな問題となった。事態が改善されていないことから、東京大会にも参加できない見込みだ。
選手や競技団体の将来さえ左右しかねないドーピング検査は、実際にどうやっておこなわれているのか?
その科学的な裏付けは、どのように担保されているのか?
禁止薬物をどう検出するか?
ブルーバックス探検隊は、産業技術総合研究所に2018年に開設された「ドーピング検査標準研究ラボ」を訪ねた。
ラボがあるのは、計量標準総合センター物質計測標準研究部門。ラボ長は、上級主任研究員の井原俊英さんだ。所属部門の硬い名前に対して、井原さんの物腰は柔らかく、こちらの緊張感をほぐしてくれる。
開口一番、井原さんが説明してくれたのは、意外な話だった。
「じつは、私たちが実際にドーピング検査をおこなっているわけではありません。尿や血液の分析は、専門の分析機関がおこないます。私たちは、ドーピング禁止薬物の分析に関わる『ものさし』を提供しているのです」
ものさし、とはなにか。
たとえば、筋肉増強剤としてはたらくテストステロンを、確かにこれはテストステロンだと認定するための物質を、井原さんは「ものさし」と喩えている。正確なものさしがなければ、厳密な分析はおこなえないからだ。
探検隊のメンバーは、選手から採取した尿を機械に入れると判定が出る、といった程度の想像しかしていなかったが、検査のしくみは複雑なようだ。ここは、もう一度ドーピング検査の手順を振り返ってみよう。
「誰のものかわからない」尿や血液を調べる
ドーピング検査は、専門の検査員が選手から尿や血液の「検体」を採取し、それが分析機関に持ち込まれて分析されることでおこなわれる。分析機関には、その検体がどの選手のものであるのかはわからないようになっている。非常に厳密で公正な体制を組んでいるのだ。
ドーピング禁止薬物は公表されており、その数は数百種類にもおよぶ。1968年にオリンピックで初めてドーピング検査をおこなったときに指定された約30種と比較しても、ドーピングをめぐる攻防が、きわめて複雑な様相を呈していることが想像できる。
最近では、こんなニュースがあった。
2019年5月になって、じつに11年前の2008年北京オリンピック4×100mリレーの銀メダルが日本人4人に授与されたのだ。優勝したジャマイカ選手のうち1人にドーピング違反が発覚したため、銅メダルから銀メダルへと順位が繰り上げられたのである。
銀メダルを手にした朝原宣治、高平慎士、末続慎吾、塚原直貴の4選手の顔にも困惑の色がみえた。
どうしてこういうことが起こるのか。
進歩した分析技術で再検査すると…
それは、ドーピング禁止薬物の分析技術が進歩したから、というしかない。
オリンピックなどの指定された大会によって、分析機関は10年間、検体の保管を義務づけられるという。出場選手がその後、別の大会でドーピング違反を犯したときなどに、それ以前の国際大会の検体を調べることがあり、そのための保管期間だ。
その間に分析技術が進歩すれば、検体の採取当時は検出できなかった違反物質が検出できるようになる。だから、10年も経ってからメダルを剥奪されるという事態が生じるのだ。
禁止薬物の種類が10倍になれば、分析技術は10倍にも100倍にも進歩しなければならないと、分析の専門家はいう。
ドーピング違反を認定するのは世界反ドーピング機関=WADA(ワールド・アンチ・ドーピング・エージェンシー)。国際オリンピック委員会(IOC)などが1999年に設立した、反ドーピング活動を推進する世界でたった一つの国際機関だ。
WADAの勧告を受けて、選手の出場資格などの処分をIOCが決定する。その権限は絶大で、前回のリオ大会ではロシアを国家ぐるみの不正と見なし、多くの出場停止選手を出した。「東京大会でも除外すべし」とWADAが決定し、IOCもこれに従うこととなったニュースが報じられたのは記憶に新しいところだ。
分析機関が資格を剥奪されることも
厳格なドーピング検査をおこなうため、ドーピング禁止薬物の分析機関もこのWADAが審査し、毎年数回の認定試験を課しているという。
現在、世界で認定されている分析機関は29~30機関で、日本ではLSIメディエンスという会社が唯一、認定を受けている。選手生命だけでなく、国家の威信さえも左右するドーピング検査だけに、分析機関に対する審査もまた厳しい。
ロシアの分析機関が資格を剥奪されたことに加え、他にも認定審査に落ちたところがあり、数年前には35あった分析機関は数を減らしている。また、その審査の厳しさから、分析機関が自ら認定を降りることもあるのだという。
WADAが実施するドーピング検査数は毎年、30万件にもおよぶ。それを世界の分析機関が分担することになる。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、日本の分析機関が中心になるだろう。そのための準備は、もうすでに始まっているのだ。
物質の成分ごとに精密分析
井原さんの話に戻ろう。
ドーピング禁止薬物を検出するための「ものさし」を提供しているということだった。
「ドーピング禁止薬物のように、物質の検出をするためには、その物質ごとに『秤(はかり)』を用意しなければなりません。1つの秤で、肉も野菜も計れるわけではないのです。テストステロンを検出したいなら、テストステロン用の秤を準備する。これはドーピング検査に限らず、化学分析の世界ではみな同じです」(井原さん)
物質の成分ごとに、違う秤を使って測っている……!? たいへんですねえ。
「そうです。たとえば精肉店の秤は、それ自身が100gという重さを知っているわけではありません。100gの分銅を秤に載せて、その目盛りを100gに合わせて使います。
これを専門用語で『校正』といいます。その秤が正しいかどうか、定期的にこの校正をおこなって、確認しているのです」
そういえば昨年の探検で、やはりここ産総研で「キログラム原器」改訂の話をうかがったときにも、校正という言葉を聞いた。
1キログラムは当時、白金イリジウム製の「国際キログラム原器」を基準として、130年間にわたって使われつづけていた。その原器を、物理定数に置き換えようというのがキログラム原器改訂の話で、2019年5月に実行に移された。
スーパーに置いてある秤も、1キログラムを元にした精巧な分銅を載せて、定期的にこの校正がおこなわれている。
化学は物理より「面倒くさい」
このように校正が施された秤が、あらゆる物質の成分ごとに必要なのですか?
「必要です。残留農薬にしても、ドーピング検査にしても、禁止されている物質を正確に検出できなければ、検査の意味がなくなってしまいます。
もし、ものさしが不正確だったために、本来の値の半分を基準値としてしまったなら、検出した値は2倍に出てしまいます。セーフの人もドーピング違反になってしまう可能性がある。正確なものさしを用意することは、それほど重要なのです」
1つの分銅を精巧にコピーしていくのでは成り立たない世界だ。
「物理系の科学者にはよく驚かれます。どうして『キログラム原器』だけじゃダメなんだ? と。でも、そこが化学の面倒くさいところで(笑)、物質によって別々の原器をつくる必要がある。
この、物質ごとのものさしを『標準物質』とよびます。私たちの仕事は、それをつくって頒布することです」
化学物質を測る精巧な分銅をつくる仕事、ということですね。
「はい。じつは私は入所以来、一貫して標準物質をつくってきました」
標準物質1つつくるのに2年かかる
こういうものです、といいながら、井原さんは指先ほどの小さな瓶を取り出してきた。理科室の鍵のかかった棚に置いてありそうな、遮光性の高い瓶の中に、粉のような物質が入っている。
「これ1個、世の中に出すのに2年以上かかりました。これはドーピング禁止薬物のテストステロンですが、他の物質でも、一般に1~2年は要するのがふつうです」
1個あたり1~2年もかかる作業を何種類も……、根気のいるお仕事ですね。薬のように大量生産はできないのでしょうか?
「これがどれだけ正しいかという評価に時間がかかるのです。たとえば、純度99.8%の証明書をつけて出すのなら、その99.8%がどれだけ正確かという証明書を書かなければいけません」
「化学物質に詳しい神様」がいてくれたら…
そんな精度をどうやって確認するんですか?
「化学物質に詳しい神様がいて、『これは純度100%のテストステロンである』といってくれれば楽なんですけど(笑)、もちろんそんなことがあるはずもなく、私たち自身で調べて表明するしかありません。
具体的には、純度が100%であることを証明するために不純物を探します。いろんな測定器にかけて、不純物があるかないかを見極める。これが、非常に時間のかかる作業なのです」
井原さんは、“やっかいなやつ”を飼っている、とでもいいたげな顔で笑う。
「要するに、目には見えないゴミ拾いみたいなもので、たんねんに潰していくしかないのです」
標準物質づくりはいつ、どのようにしてはじまったのか?
有機化合物の標準物質をつくりはじめたのは、1996年がスタートだという。国の標準をつくるという重要な仕事だが、いかんせん地味だ。何から手をつけたのですか?
「最初につくったのはエタノールです」
エタノールというと、アルコール?
「みなさんもやったことがありませんか?検問で警察官が『ハーッと息を吹きかけて』というあれです。アルコールの呼気検査です」
必要な標準物質は3000以上!
じつはそれ以前は、日本にはエタノールの原器といえる標準物質が存在しなかったのだという。それでは正確なアルコール検査ができないというので、まずはエタノールの標準物質をつくって、それを秤=ものさしとすることで、検査がおこなわれている。
つまり、30年前のアルコール検査と今のそれとでは、正確性に差があるということだ。
「精製したエタノールでも純度100%にはなりません。当たり前のように水は残っていますし、エタノール以外のアルコールなど、さまざまな不純物が含まれているのです。そのため、コツコツとゴミ拾いをつづけてやっとできあがる。一見バカみたいに思えるかもしれませんが、世界中で同じことをしているのです。もちろん、そういう体力のある国に限られるので……、10ヵ国に満たないでしょうが」
エタノールにつづいてつくられた多くの標準物質も、さまざまな分析に使われてきた。
「公害や農薬、環境問題……。それらを計測するときに必要なのが標準物質です。必要とされている標準物質は、3000以上にもおよびます。たとえば、食品衛生法で定められている農薬のリストだけでも800ほどあります。1個の標準物質をつくるのに2年かけていたら、どれくらいの年月がかかるか……、気の遠くなるような話ですね」
使い果たしたらイチから再生産
やっかいなことに、一度つくった標準物質も、瓶に入れて使っていると、フタを開けるたびに品質が落ちていく。そして当然、実際に分析で使えば瓶の中身は減っていく。
「『なくなったからまたつくって』といわれたら、同じ作業をイチから繰り返します。なるべくその作業を減らすために、瓶の中の物質を再検査して、有効期限を延長するということもおこないます」
そのような大きな負担を軽減するため、根気のいるゴミ拾いに替えて、新しい技術を使うという試みがはじまっている。
どういうものなのでしょう?
「見るレベル」を分子から原子へ格上げ
「もともとあるNMR(Nuclear Magnetic Resonance:核磁気共鳴)という技術を進化させた、『qNMR(quantitative NMR:定量核磁気共鳴分光法)』という分析法を用います。qNMRについては、斎藤くんに説明してもらいましょう」
井原さんは、隣にひかえる若手研究者を紹介してくれた。研究員の斎藤直樹さんだ。
「ゴミ拾いをおこなうときのクロマトグラフィーなどの従来の方法は、化学物質の『分子』を見ていました。一方のqNMRは、分子を構成している『原子』を見ることができる。より普遍性の高い計測ができるというわけです」
斎藤さんは、さらりと顕微鏡の倍率を上げていく。いずれにしても、目に見えない世界の話だ。
「物質の分子構造がわかっていれば、その分子に対して水素がいくつついているのかもわかります。qNMRは、その水素を数える技術です。従来のように“ゴミ拾い”をするのではなく、“本命”を見るので、よりスピーディーにその物質の成分量を正確に知ることができます」
qNMRの登場により、瓶の中の標準物質が有効性を保っているかどうかという分析、すなわち校正が飛躍的に進歩した。画期的な技術だという。
「このスピードがあるからこそ、オリンピックのような短期間で検査結果を出さなければいけない状況にも対応できる。じつは、私たちは昨年まで、ドーピング検査のことはまったく知りませんでした。でも、この技術をもっていたからこそ、ドーピング検査を下支えする仕事に関わることができるということなんです」(井原さん)
qNMRこそ、ドーピング追及を担う“特命”部隊の切り札なのだ。
“使えない技術”
意外にも、qNMRは一度、世界から消えかけた技術だ。
技術そのものはアメリカで提唱され、2000年代には、世界の計量標準機関がこれを使って標準物質の純度測定を競った経緯がある。ところが、各国ともに目標とする精度には届かなかったために、“使えない技術”と否定されたのだ。
しかし、日本が出した測定値に自信をもっていた井原さんたちは、qNMRのポテンシャルの高さを確信して、その後も研究をつづけた。
2010年の比較試験では、各国が従来の方法に固執して大きな“ゴミ”を次々と見逃すなか、qNMRではその影響をいっさい受けずに正しい測定値を出せたという「事件」があった。当初、そんなはずはないと誰もが疑いの目を向けたが、後日、井原さんたちは別の測定方法によって、その大きな“ゴミ”を見つけ出した。そして、そのゴミが各国の数値を確かに狂わせていたことを証明してみせたのだ。
それが認められたことを契機として、今やqNMRは標準的に使われる技術となっている。
「各国の計量標準機関が集う国際的な比較試験は、私たちにとってまさにオリンピックのようなものなんです。測定値がダメなら、その国の信用度は落ちてしまいますから」
この技術には、もう1つ国内的な危機があった。
2009年に民主党政権が誕生したときに「事業仕分け」というのがあったのを憶えているだろう。じつは、その際にこの技術は仕分け対象にされてしまい、経済産業省からの5年間のプロジェクトが、初年度で途切れることになってしまったのだ。
この危機も、国内の技術者たちの執念で乗り切った。
「各企業がお金を出し合って、みんな手弁当の状態で研究をつづけました。それだけ、未来を感じる技術だったからです」(井原さん)
いかに速く、正確に測るか
こうして国際標準の技術となったqNMRは、オリンピックのドーピング検査を支える技術に応用されることになる。
東京オリンピック・パラリンピックまで数ヵ月に迫った今の課題は、「使用量」と「スピード」だという。
「標準物質の純度をこれまでよりも少ない量で正確に測れるようにすること、すなわち、使用量の軽減です。今の5分の1くらいまでもっていきたい」(斎藤さん)
「なにしろ、標準物質は高いんです。1gで100万~200万円するものがザラにあります。
それだけ貴重なものなので、qNMRで測定するたびに大量に使っていたら大変なことになる。まずは、量を減らしても純度を測れるようにすること。そして、オリンピック期間中にものさしが足らなくなったら、そのときはもう時間との闘いになります。計測のスピードも重要になってくるのです」(井原さん)
WADAの規程では、通常の検査期間は10日ほどの余裕があるが、オリンピック期間中はこれがぐっと圧縮され、24時間以内ということもありうる。メダルを授与した後に検査結果が出て順位がくつがえったのでは、選手も観客も混乱してしまうことを考えれば致し方のないところだろう。
減らない陽性反応にどう対処するか
WADAで禁止薬物のリストが公表されるのは、毎年1月のこと。その数は、300種類を越えて、なお増えつづけている。
興奮剤、ステロイド、成長ホルモン、検出を逃れるためのマスク剤、血液入れ替え……。ドーピングをする側の使用薬物やそれを覆い隠すための技術は、どんどん高度化していく。
違反しようとする人間は新しい抜け道を探り、それを阻止しようとする規制側は穴を潰していく。ドーピングが、“イタチごっこ”とよばれるゆえんだ。
そのたびに禁止薬物は増え、検査は厳密化される。ときおり、風邪薬に含まれる禁止物質を誤って飲んでドーピング検査に引っかかったという報道もあるが、そのような“うっかりドーピング”は、年に数十例ほどと見られている。
つまり、ほとんどは意図的なドーピング違反なのだ。年間約30万件の検査に対して、1%以上の陽性反応が出つづけている。
五輪後もつづく戦い
そのためWADAでは、ドーピング逃れを阻止しようと、検査においても先回りしようとしている。今後、出てくるであろう禁止薬物の検査態勢を強化するために、その標準物質も準備しているという。
「2015年に水道の水質検査方法が改正され、きちんとしたものさしが使われるようになりました。2018年には、ドーピング防止活動推進法も成立しています。今後ますます、正確なものさしが活躍する場面は増えていきます。嬉しい反面、根気のいる仕事が増えるなあ、とも思っています(苦笑)」(井原さん)
井原さんたちの仕事は、東京オリンピック・パラリンピックが終わった後も、つづいていく。