独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)生物プロセス研究部門【研究部門長 田村 具博】深津 武馬 首席研究員(兼)生物共生進化機構研究グループ長、細川 貴弘 共同研究員(国立大学法人 琉球大学博士研究員)、生物共生進化機構研究グループ 森山 実 協力研究員(日本学術振興会特別研究員)は、放送大学、国立大学法人 東京大学と協力して、衛生害虫トコジラミの生存に必須の共生細菌ボルバキア(Wolbachia)の全ゲノム配列を決定し、他の細菌から遺伝子水平転移で獲得したビタミンB7(ビオチン)合成遺伝子群が宿主トコジラミの生存を支えていることを解明した。
ボルバキアは昆虫類に広くみられる寄生的な共生細菌であるが、今回の研究により、トコジラミとの栄養供給を基盤とした相利共生関係が例外的に成立した進化機構が明らかになった。遺伝子水平転移による寄生から相利共生への進化を実証するとともに、衛生害虫の生存に関わる生理と分子基盤についての新知見である。衛生害虫として世界的に問題となっているトコジラミの防除や制御にも貢献が期待される研究成果である。
この研究成果は2014年6月30日(米国東部時間)に米国の学術誌「Proceedings of the National Academy of Sciences USA」(米国科学アカデミー紀要)にオンライン掲載される。
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吸血直後のトコジラミ若令幼虫。尾端が黒いのは前回吸血時の糞が腸内に残っているため。 |
カ、ノミ、シラミ、トコジラミ、ツェツェバエなどの吸血性昆虫は、吸血による痛痒や不快感だけでなく、さまざまな感染症を媒介するため、衛生害虫として大きな問題となる。特に発展途上国では、今なお多くの人々の健康や生存を脅かす重大な社会的負荷となっている。一方で先進国では、重篤な昆虫媒介感染症の多くはほぼ根絶され、1960 年頃までにはシラミやトコジラミなどの古典的な吸血衛生害虫もほとんど見られなくなった。ところが近年、殺虫剤耐性虫の出現や、人的・物的な流通のグローバル化に伴い、これら衛生害虫の再興が大きな問題となっている。特に北米やオーストラリア、日本などの先進国では、近年のトコジラミの発生や被害は、強い不快や嫌悪を伴い、宿泊施設、公共施設、共同住宅などで大問題となりうるため、観光業界、住宅業界、公共機関などにとって無視できないリスク要因である。
衛生害虫、不快害虫としてさまざまな形で問題となる吸血性昆虫類の防除や制御は、人体や環境に低負荷であることが必須であり、殺虫剤散布などの従来型の制御手法に加えて、新しい害虫制御技術の開発が望まれる。
産総研では、昆虫の体内に共生する微生物がもつ植物適応、害虫化、農薬耐性などの重要な生物機能の解明(2004年3月25日、2007年6月13日、2012年4月24日 産総研プレス発表)や、生殖操作、垂直伝達、共生維持などの宿主昆虫と共生微生物の間の高度な生物間相互作用の理解(2007年7月2日、2012年5月28日 産総研主な研究成果、2013年6月11日 産総研プレス発表)などに取り組んできた。特に共生微生物と宿主昆虫間の遺伝子水平転移が生物進化に果たす重要な役割について特筆すべき研究成果がある(2002年10月29日、2013年6月21日産総研プレス発表)。また、吸血性昆虫と共生微生物の関係については、昆虫類に広くみられる寄生的な共生細菌のボルバキアが、トコジラミでは例外的に、餌の血液中に欠乏しているビタミンB群を供給する栄養相利共生細菌であることを解明した(2009年12月22日 産総研プレス発表)。
今回はこれら一連の先行研究を背景に、もともとは寄生細菌であったボルバキアがなぜトコジラミの相利共生細菌に進化したのか、またトコジラミとボルバキアの共生関係で、特に重要なビタミンBはどれなのかといった問題に対して、ゲノム生物学や実験生理学的アプローチから解明に取り組んだ。
なお、本研究は、独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 生物系特定産業技術研究支援センターと文部科学省 科学研究費補助金の支援を受けて行った。
ボルバキアが局在しているトコジラミの菌細胞塊を集めてDNA試料を調製し、約125万塩基対の環状DNAからなるボルバキアの全ゲノム配列を決定した(図1)。すでに決定されているキイロショウジョウバエ、オナジショウジョウバエ、ネッタイイエカに寄生するボルバキアのゲノム配列(約127~148万塩基対)と遺伝子の数や組成はよく似ており、トコジラミのボルバキアに特有なゲノムレベルの特徴はみられなかった。ところが、ビタミンB合成系の遺伝子群を比較したところ、他のボルバキアのゲノムにはビタミンB7(ビオチン)合成系の遺伝子群が全く存在しないのに対し、トコジラミのボルバキアのゲノムには6個の遺伝子がすべて存在していた(図2)。
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図1 トコジラミに共生するボルバキアのゲノム構造 |
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図2 各種ボルバキアゲノムにおけるビタミンB群の合成経路の有無 |
“完全”、“不完全”、“欠失”はそれぞれ合成系遺伝子群がすべて存在する、一部が存在する、全く存在しないことを示す。トコジラミのボルバキアだけがビタミンB7の完全な合成経路を持つ(赤丸)。 |
トコジラミのボルバキアのゲノムでは、6個のビタミンB7合成系遺伝子はひとかたまりに並んでオペロンを形成していた。このような特徴は、系統的に近縁な細菌であるアナプラズマ(Anaplasma phagocytophila)のゲノムにはみられなかった。一方、昆虫類の寄生的共生細菌であるカルディニウム(Cardinium hertigii)や、ダニ類や昆虫類の寄生/共生細菌であるリケッチア(Rickettsia sp.)のプラスミド、ブタに腸炎を引き起こす病原細菌のローソニア(Lawsonia intracellularis)など、系統的には必ずしも近縁ではない多様な細菌のゲノムにこの特徴がみられた(図3)。分子系統解析から、ボルバキアのゲノム上に存在する6個のビタミンB7合成系遺伝子はすべて上述の細菌類に近縁であった。特にカルディニウムのゲノム上に存在する遺伝子に最も近縁であった(図4)。
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図3 トコジラミのボルバキアとその他の細菌のゲノム上でのビタミンB7合成遺伝子群の配置 |
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図4 トコジラミのボルバキアのゲノム上に存在するビタミンB7合成遺伝子BioHがコードするアミノ酸配列に基づく分子系統樹
括弧内は細菌のグループ、枝上の数字は各系統群の統計的信頼性(%)を示す。他のビタミンB7合成遺伝子についても同様の結果が得られた。 |
以上をまとめると、(1) ほとんどのボルバキアはビタミンB7合成系の遺伝子を欠いている。(2)トコジラミのボルバキアだけは完全なビタミンB7合成系の遺伝子をもっている。(3) トコジラミのボルバキアのゲノム上ではビタミンB7合成系の遺伝子群はコンパクトなオペロン構造をとっている。(4) カルディニウムのゲノム上でもビタミンB7合成系の遺伝子群が同様のオペロン構造をとっている。(5) 分子系統解析よりトコジラミのボルバキアのビタミンB7合成系の遺伝子はカルディニウムの遺伝子と最も近縁である。(6) ボルバキアもカルディニウムも昆虫類に広くみられる共生細菌であり、しばしば同じ宿主昆虫に共感染している。これらの一連の事実から、トコジラミのボルバキアのゲノム上に存在するビタミンB7合成系の遺伝子群は、おそらくはトコジラミの祖先で共感染していた共生細菌カルディニウムから、オペロンとしてそっくりそのまま遺伝子水平転移により獲得された可能性が高いと考えられる。
ボルバキアのビタミンB7合成系の遺伝子群の、宿主トコジラミにとっての生物学的な意味について検証した。
通常のウサギ血液を与えて飼育したトコジラミ4令幼虫と、抗生物質を添加したウサギ血液を与えてボルバキア感染を除去したトコジラミ4令幼虫について、体内のビタミンB7含量を測定したところ、ボルバキア除去虫のビタミンB7含量はボルバキア感染虫に比べて低かった(図5A)。これは、ボルバキアのビタミンB7合成遺伝子群が確かに機能して、宿主トコジラミにビタミンB7を供給していることを示す。
ボルバキア感染を除去したトコジラミ幼虫を通常のウサギ血液で飼育すると羽化率は著しく低かったが(図5B右)、ウサギ血液にすべてのビタミンB類を添加すると羽化率は90 %以上に回復した(図5B左)。また、ビタミンB7以外のすべてのビタミン類を添加したウサギ血液で飼育したところ、羽化率は60 %程度となり(図5B中)、すべてのビタミンB類を加えた場合よりも低下した。このような栄養生理学的な解析から、トコジラミのボルバキアのビタミンB7の供給能力は、確かに宿主トコジラミの成長や生存を支える重要な役割を果たしていることがわかった。
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図5 トコジラミのボルバキアによるビタミンB7の合成・供給機能の解析 |
(A) ボルバキア感染4令幼虫とボルバキア除去4令幼虫のビタミンB7含量。(B) 餌のウサギ血液にビタミンB類をすべて添加(左)、ビタミンB7以外のビタミンB類をすべて添加(中)、無添加(右)で飼育したボルバキア除去幼虫の成虫羽化率。*は統計的に有意な差があることを示す。棒グラフ中の数字は分析した個体数を示す。
今後は特にボルバキアが局在する菌細胞におけるトコジラミ遺伝子群の発現や機能解析を進め、共生の成立や維持に関わる宿主側の分子機構についても解明していく。共生細菌ボルバキアのビタミンB7合成遺伝子群が産生する酵素の阻害剤や、今後明らかになると期待される宿主トコジラミの共生維持に関わる遺伝子群の働きを妨げる薬剤を開発できれば、衛生害虫として再び問題化しているトコジラミの防除や制御への従来にないアプローチとなりうる。そのような観点からの研究も推進していきたい。