2022年ノーベル生理学・医学賞「古代DNAの解析」とは?
2022年ノーベル生理学・医学賞「古代DNAの解析」とは?
2023/02/15
2022年ノーベル生理学・医学賞「古代DNAの解析」
とは?
―過去と現代をつなぐミッシングリンクへのアプローチ―
科学の目でみる、
社会が注目する本当の理由
古代DNAの解析とは?
2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したのはスウェーデン出身でドイツのマックス・プランク研究所のスバンテ・ペーボ博士です。ペーボ博士はゲノム比較によって、現代人のゲノムに絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝情報の一部が残っていることを明らかにしました。このことは、現生人類(ホモ・サピエンス)と旧人類が交配していた可能性を示唆し、世界に衝撃を与えました。これは「古ゲノム学」という新しい学問領域を世に知らしめた研究でもありました。世界各地の異なる年代の生物遺骸からDNAを取り出し、比較、分析することで、遺跡や骨の形状だけではわからない古代の人々の交流や移動が、遺伝情報に基づいて研究できるようになりました。人類の進化をひもとく新しいアプローチとその結果に対してノーベル賞が贈られたのです。
「人類はどこから来たのか、いかにして現在の人類へと進化してきたのか」についてはさまざまな研究が行われてきました。文字による記録が残される以前の人類史(先史時代)については自然人類学、考古学、古生物学、霊長類学、言語学、地質学、気候学なども合わせ、その謎に迫ってきました。それが1990年代頃から進展した分子生物学の技術によって劇的に変化します。少ないDNA量を増幅させるPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法や遺伝情報を読み取るDNAシーケンスなどの研究手法が、過去に生きていた生物や絶滅した種の情報を知ることに応用できたのです。ペーボ博士はその開拓者の一人であり、人類史研究に革新をもたらしました。今回はその研究内容を、生物プロセス研究部門に所属し、ゲノム科学を専門とする石谷孔司に聞きました。
古代のDNA解析で人類の謎を追う
DNAを解析すれば何でもわかるのではないか、そう思われる人もいるかもしれません。しかし、死後時間が経過した古代の生物のDNAはそもそも残っている量が少なく、私たちのように生きている人間のDNAと同じように解析することはできません。
古代のDNA解析で多く使われてきたのは、ミトコンドリアDNA(以下、mtDNA)です。ヒトを含む動物などが持つDNAには細胞核に存在する核DNAと、細胞小器官のミトコンドリアに存在するmtDNAがあります。mtDNAの特徴は大きく三つ。核DNAよりも塩基置換が起こる速度がはやいこと、組換えがなく母性遺伝であること、そして特に重要なのは細胞あたりのDNAのコピー数が多いことです。一人の人間が持つmtDNAは同一で、そのゲノムはゲノム全体のわずか0.0005 %しかありませんが、核DNAに比べて組織から採取できるDNAコピー数が多いため、死後時間が経過した生物遺骸でも分析しやすいのです。
1997年、ペーボ博士はネアンデルタール人の上腕骨からDNAを取り出し、mtDNA配列の一部を決定しました。これは、絶滅した人類のゲノムを世界で初めて解読した快挙でした。その結果では、現生人類はネアンデルタール人からのmtDNAを受け継いでいませんでした。しかし、これだけではネアンデルタール人と現生人類の間に交配がなかった証明にはなりません。mtDNAは卵細胞を通じて母系のみで伝わっていくため、両親に娘がいない(息子しかいない)場合は、それ以降の子孫には伝達されないからです。より正確に古代の人類の交流や移動を調べるためには、父と母の両方に由来し、娘にも息子にも同様に伝わる核DNAを調べる必要があります。
そこで、ペーボ博士はネアンデルタール人の核DNAの研究に取り組みます。10年以上をかけて遺跡などから試料となる骨を探し出し、核DNAを取り出して解読を進めました。こうして2010年には、ネアンデルタール人の全ゲノム配列の約9割の解読を完了し、それをヨーロッパ、アフリカ、パプアニューギニア、中国などの現代人のゲノム配列と比較し、現生人類とネアンデルタール人とが過去に交配していたという生物学的な証拠を発見しました。
分子生物学と研究手法の発展
ペーボ博士の一連の研究は、分子生物学とその研究手法の発展に支えられています。
まず、ミイラや人骨などの生物遺骸から採取した内在性のDNAは極微量しか存在しないため、それらを分析可能な量まで増やす方法が必要でした。1990年代に普及したPCR法は、DNAの増幅効率を劇的に高めました。PCR法では、理論上はDNAがひとつあればそれを大量に複製できるため、古代の遺物から得た希少なDNAを研究するための強力なツールとなりました。
ペーボ博士の核DNA解読においては、次世代シーケンサーと呼ばれるDNAの塩基配列の読み取り・解析装置の登場も大きく貢献しました。このシーケンサーは、従来の装置と違い、短い配列を一度に大量に分析できるため、ほとんどが断片化された短い配列からなる古代DNAの解析に非常に適していました。ペーボ博士は、当時開発されたばかりの次世代シーケンサーを活用し、他に先駆けて研究を進めたのです。
また、研究を進める中で、ペーボ博士ははやくからDNA汚染(コンタミネーション)の危険に気づいていました。古ゲノム学の研究対象となる生物遺骸は長期間、地層の中などにあるのでバクテリアをはじめ、他の生物のDNAが混入していることがあります。当然ながら、研究の最中にも他の研究資料のDNA、発掘・計測・実験時などに現代人のDNAなどがまぎれこむ可能性もあります。また、PCR法は極めて感度が高いため、研究者などの皮膚や汗がほんのわずかに混入するだけでも、対象となる生物種や個体のDNAが正しく分析できなくなります。研究者の中には、これに気づかないまま研究論文として発表し、後で異物混入が判明する等、この研究分野の信頼を失墜させることも起こりました。やがて、一流学術誌でも、クリーンルームでの実験やDNA汚染を評価するための一定の基準を満たす必要があるとして、論文掲載にも厳しい条件が課されるようになりました。
従来の考古学や人類学に新たな展開をもたらした古ゲノム学
古ゲノム学の研究が行われる以前、ネアンデルタール人と現生人類(ホモ・サピエンス)の生息地が近くにあった証拠は見つかっていましたが、両者の交配の有無についてはよくわかっていませんでした。それがペーボ博士が中心となった古ゲノムの研究によって明らかになりました。
- ネアンデルタール人から得られたmtDNAは現生人類の配列とは明らかに異なり、彼らが現生人類の直系の祖先ではないことを明らかにした。
- ネアンデルタール人の核ゲノムは、アフリカ地域より、ヨーロッパやアジアなどの非アフリカ地域の現代人ゲノムにより多く残っている。つまり、出アフリカ以降の現生人類とより多くの交流があったことが示唆される。
- ロシアのデニソワ洞窟から出土した試料のゲノムを分析したところ、ネアンデルタール人とも異なる新たなグループの古人類の存在を示し、これをデニソワ人と命名した。
では、現生人類が世界中に広がり繁栄したのに、ネアンデルタール人(およびその他の古人類)が滅びたのはなぜでしょうか。
ネアンデルタール人は地球の寒冷化に適応できなかった、音声言語能力が十分でなかった、など諸説ありますが、原因はまだよくわかっていません。人類の移動についても出アフリカ以降に現生人類の一部が、またアフリカに戻ったという説もあります。ネアンデルタール人が生息していた地域では、古ゲノム分析によって旧人類と現生人類の関係性を調べるための研究が現在も進められています。
このように古ゲノム学は従来の考古学や人類学に新たな展開をもたらしました。今後も、多くの古ゲノム分析によって人類史は何度も書き換えられる可能性があります。ノーベル賞は、こうしたペーボ博士の一連の業績に対して贈られたと言えるでしょう。
古ゲノム学が、今すぐ現在の私たちの生活を変えることはないと思いますが、現代の人間の身体的な特性がどこから来たのか(例えば、アルコール代謝酵素や乳糖分解酵素はなぜできたのか、いつ頃できたのか)、病原菌の起源など、さまざまな分野に、新しい視点、直接的な遺伝的証拠として現代に生きる生物とのミッシングリンクを埋める役割を果たし、人類に関する研究をより豊かなものにしてくれると思います。