2020年1月1日掲載
取材・文 中川 隆夫、ブルーバックス編集部
まるで穴のような「暗黒シート」
ブラックカードやブラックホールを持ち出すまでもなく、人は不思議と「ブラック」に惹きつけられる。本物の暗闇、暗黒は、奥行きが知れない。黒は、人を惹きつけるとともに底知れない恐怖も感じさせる。不思議な色だ。
この「ブラック」の世界で、より黒い物質の競争が盛り上がっているという。
そこで「究極の暗黒シート」を開発したという人に会いに行った。産業技術総合研究所・物理計測標準研究部門の雨宮邦招・研究グループ長である。
どんなシートなのか。暗黒とはどういうことなのか。疑問は次々とわいている。
雨宮さんはまず、話題の「暗黒シート」を見せてくれた。比較のために並べてあったのは、ごく普通の黒いゴムシート。2枚ともコースターのような10cm四方の薄いシートだ。
一目見て、ゴムシートのテカリが目立つ。一方の「暗黒シート」は、照明の反射がないので、もしかしたらシートの下に奥行きがあるのではないかと思ってしまう。
「暗黒」の不思議な手触り
「触ってみてください」と爽やかで落ち着いた雨宮さんの声が響く。
おそるおそる触ってみると、ツルツルしているゴムシートに対して「暗黒シート」はビロードのような感触がある。不思議な手触りだ。ザラザラしているわけではなく、ツルツルしているわけでもない。
「暗黒シートの表面にはミクロの凹凸がつけてあります。これが光を吸収する構造になっているのです」
暗黒の秘密はミクロの凹凸
暗黒シートの表面にある凹凸は、穴の深さが数十マイクロメートルだという。生物の大きめの細胞1個と同じぐらいだ。当然、目で見てもわからないので、雨宮さんが図で説明してくれる。
「鋭角の三角錐が、基板に隙間なく並んで立っている感じです。外から光が入ってくると、この傾斜のなかで反射しながら光が穴の奥に吸収されていくのです」
光は、三角錐の傾斜になんども反射しながら、基板の底に落ちていく。まるで光の蟻地獄のような構造になっている。そして反射のたびに黒い素材が光を吸収していく。そのため反射率が抑えられる。さらに、三角錐の頂点は丸みを帯びること無く鋭く尖っているので、頂上からの反射光も抑えている。これが黒く見える理由だ。
「今のところ、暗黒シートの光吸収率は99.5%までいきました。比較した黒いゴムシートで95%くらいでしょうか」
なるほど。95%の吸収率でも、ライトの光を当てるとこんなにテカって見えるのか。たった4%ほどの違いしかないのに。
「実は、もっと光を吸収する素材はもうあるんです。それはカーボンナノチューブで作られたもので、99.9%以上の吸収率を達成しています」
え? では、世界一ではない。二番手でいいのでしょうか。
「カーボンナノチューブ製のものは、壊れやすく、指で触っただけで吸収率が落ちてしまいます。ところがこの暗黒シートは、いくら触っても大丈夫です。実用性の点では圧倒的にこちらが有利なのです」
触れるか、触れないかの違いは、構造によるという。例えて言えば、カーボンナノチューブ製は短い芝生がグランドに生えている状態だと思っていただきたい。そこが巨人の指で押さえつけられたら芝生はへたってしまい、下地が見えてしまう。そうなると反射率は上がる。しかし、暗黒シートは陸上競技のトラックのように丈夫なゴムで出来ているため、へたったりしない。吸収率の数字ではまだ負けているが、実用性の点では圧勝なのだ。
構造の秘密は「イオンビーム」
しかし、ゴムでどうしてこんな微細な加工ができるのだろうか。
「この黒いゴムはシリコンゴムを鋳型に流し込んで作っているんですが、この形にするための鋳型が重要です。鋳型となる素材に、細かく深い三角錐の穴を空けるのは工場のレベルではできません」
数十マイクロメートルの三角錐の穴をびっしりと一面に空けていく秘密兵器。それがイオンビームだ。まるでマンガの必殺技のようだが、本当の話。
「鋳型の素材はCR-39という樹脂です。眼鏡のレンズに使われることもある樹脂なのですが、その高性能版だと思ってください。そこに量子科学技術研究開発機構の協力のもと、サイクロトロン加速器から発射したイオンビームを当て、さらに濃い水酸化ナトリウム溶液で表面を溶かして(エッチングして)穴を空けるのです。CR-39樹脂の分子構造がこの方法に向いている素材なのです」
イオンを当てて穴を空ける。細かすぎて、頭の中の電子顕微鏡で想像するしかない。しかし、それで先ほど見てもらったような三角錐がつらつらと並んだ構造を作り、鋳型となる。そこにカーボン(炭素)を混ぜたシリコンゴムを流し込んで剥がすと「暗黒シート」ができ上がる。
意外と多い邪魔な「反射」
ところで、この「暗黒シート」は何に使えるのだろうか。
「用途として考えているのは、とにかく光の反射を嫌う場面で暗闇を作り出すもの、ですかね」
たとえば、映画館やプラネタリウムの天井。望遠鏡の筒の中。仮想空間を見るためのVRヘッドセットの中。車のダッシュボード……。
雨宮さんが見せてくれた写真は、自分の車のダッシュボードの一部に貼り付けた暗黒シートだった。なぜそこに必要なのだろうか。
「ダッシュボードではなく、そこが反射しているフロントガラスを見てください。映り込みがないでしょう」
ああ、確かに。反射がないから、前面がクリアに見える。これなら見通しがいい。
「VRヘッドセットや映画館は、没入感を作り出すための環境づくりです。望遠鏡やカメラの中に使うのは、微量の光の乱反射も嫌う技術的な問題のためです」
SNSでも話題の「中二病」的ネーミング
「暗黒シート」は、最近復活してきた塩ビのレコードと同じで、原盤(鋳型)さえあれば、いくらでも作ることができる。耐久性もある。ということで、2019年の春に発表して以来、いくつもの問い合わせが来ているという。
この記事の冒頭でも紹介したが、産総研のツイッターに「究極の暗黒シート」の動画がアップされると、一般人の反応も素早かった。堅めの研究機関には珍しく「バズッた」らしい。
名前が中二病っぽい。
ネーミングだけで、優勝。
そんなコメントが寄せられている。
「なんの優勝なのか、わかりませんが(笑)。嬉しいです。こんなにも問い合わせをいただけるとは思ってもみなかった」
しかし、中二病っぽいという指摘は、意外と的を射ているのかもしれない。
「人間の目が“白”を認識しようと思ったら、あらゆる色の光を当ててあげないと白く見えないんです。白というのは光が必要な色です。ところが黒は光がなくても黒。黒は光を必要としない。そんな話を、私どもの理事長が言っていました(笑)。どうも黒が好きな人は多いみたいですね」
黒は人を惹きつける。それは世界共通の感覚だろう。ちなみに、雨宮さんが乗っている車の色も黒だという。
何ものにも染まらない。何ものも必要とせず、独立独歩。相手にはその奥行きさえ掴ませない。映画や小説などの物語のバックで糸を引くのは必ず「黒い」ヤツだ。そこに惹きつけられるのは人間の本能的なものかもしれない。
バックにいるのはあの組織
それにしても、いくら黒好きが多いとはいえ、どうしてこんなに吸収率の高い黒が世の中に出てきたのだろうか。
「こういった暗黒材料のバックには大抵、“計量標準”の人間がいます」
バックにケイリョウヒョウジュン?
「極めて低い反射率を正しく評価するためには、計量標準の専門家が必要です」
雨宮さんがいるのも、産総研の計量標準総合センターだ。計量標準の人々を訪ねると、あまりにも厳密な話が続くので、いつも脳がブラックアウトしそうになる。キログラム原器の話も、つい先日きいたドーピング分析に使う標準物質の話もそうだ。雨宮さんもその一派なのか。
「私は光の担当です。光の明るさにも当然、計量標準があります」
照明器具を買うと、何ルーメン(lm)とか、何ワット相当とか、書いてある。
「ルーメン(lm)は“光束”の単位で、照明の明るさを表します。一方、国際単位系(SI)における基本単位はカンデラ(cd)で、“光度”の単位です。すべての方向に放出される光の総量で電球の性能を表すのがルーメンで、ある方向から見たときの明るさがカンデラ、と思って差し支えないです。光度や光束の数値を導き出すには、光のパワー(出力)の計測が不可欠です。この光のパワーを正確に測るためには、実は究極の黒が必要なのです」
光源からの光がどれだけのパワーを持っているのか、正確に計測するためには、余計な反射のない壁が必要となる。我々が人間の眼で見ている光は、反射だらけだ。むしろ反射がなければ物体の奥行きも形もわからない。“闇に烏(カラス)”とは、見えにくいという比喩であって、本当に光のない世界に行けば、カラスも人間も、何も見えない。
では、これまで光のパワーをどうやって測ってきたのか。
「黒体空洞という、暗黒シートと同じような構造をもったものがあり、それを使っています。暗黒シートよりかなり奥行きのある黒い空洞体で、光吸収率は99.9%以上。これで全ての光をとらえて検出します。光の計量標準を何十年も支えてきています」
それなら、なぜ「暗黒シート」が必要なのでしょう。
「大きな面積の暗黒材料が必要になってきたからです。黒体空洞だと、大面積にすることが難しいです。さらには、耐久性があるものを用意しておきたいからです。ちょっとしたことで触ってしまっても『暗黒シート』なら大丈夫です。実用性が高いのです」
赤外線でも世界最高水準の吸収率を達成
ちなみに、この「暗黒シート」は、光を吸収するだけではない。正確に言うなら、可視光を吸収するだけではない。赤外線も吸収するのだという。
「光は、さまざまな波長を持つ電磁波です。可視光より波長の長い赤外線の吸収率は、このシートによって理論上の99.9%が現実に達成できているのです」
赤外線を吸収するとなにがいいのでしょうか。
「空港などで体調の悪い人をサーモグラフィで検査しますね。あれは熱赤外線を測る機械です。サーモグラフィがなぜ人の体温を測れるかというと38度の体温の人は赤外線を周りよりもたくさん出している。それを赤外線センサーで捕らえて画像化したものです。これも結局カメラ。その性能を良くしようと思うと、余計な方向から来た赤外線の乱反射を防ぐための素材があると便利なんです」
熱赤外線の波長域で99.9%以上の光吸収率は世界最高水準だという。
雨宮さんのこれからの目標は、さらなる黒の追求になりそうだ。
「具体的なモノへの実用化を進めていきたいのと、やはり可視光に対しても99.9%の吸収率を目指していきたいですね」
99.9%と99.5%の違いは、数字の上では0.4でしかない。しかし、2枚を並べてみるとこれまた違いがよくわかるという。人間の眼はわずかな黒の違いも判断できるのだ。それもすごいことだと思える。