2019年3月31日掲載
取材・文 中川 隆夫
周囲80kmに何も存在しない絶海
夕暮れの太平洋にポツンと姿を現した奇岩は、まるで大海原でゴジラが固まった後ろ姿に見える……。2018年秋に放送されたNHKスペシャル『秘境探検 東京ロストワールド 孀婦岩』は、孤立した岩の異形が話題をよんだ。
東京から南へ660km──。
伊豆小笠原諸島の一部でありながら、これまで詳しい調査が行われてこなかった謎の島の四方には、じつに80kmにわたって何物も存在しない。上陸を拒むように海からそそり立っている奇岩──洋上の孤独なゴジラに、われわれ探検隊もぜひ、会いたいと思った。
「孀婦岩(そうふがん)」という名の、この謎めいた岩の調査に加わった地質研究者が産業技術総合研究所にいると聞いて、研究室を訪ねた。火山活動研究グループの主任研究員・石塚治さんである。
番組の映像では、見渡すかぎり青い海しか見えないなか、高さ100mほどの岩が鉛筆の先のように海中から突き出ている。この異様な光景をほとんどの人は初めて目にしただろう。
もちろん、伊豆小笠原の火山帯研究者である石塚さんは、以前にも見たことがある。しかし、実際に現地調査のために近づいていくとき、この「ゴジラ岩」はどんなふうに映ったのだろうか。
「最初は、海のなかに点のように見えてくるんです。あるのかないのかわからないくらいの点が近づくにつれて、尖った形が見えてきて……。その姿はまさしく異様という感じですよ。ああいう地形は、地球上のどこを探してもなかなかありませんから」(石塚さん・以下同)
番組では、地質学の石塚さんに加え、生物学者やクライマーも乗船していた。この岩の調査に参加するのは、誰もが初めてのことだったという。
孀婦岩は、海中からそそり立っているため、普通の方法ではまず上陸できない。番組では、登山の専門家がボートから飛びついて、岩肌をよじ登っていく姿が映し出されていた。
石塚さんは、海底調査のために船上にいて、実際に上陸することはなかったが、岩の最上部で昆虫が発見されたことで、生物学者には興奮が走ったという。
ケーキに立てられたロウソク
地質学においても、新たな発見はあったのですか。
「地質学者は、具体的なモノを持って帰らなければ仕事になりません。サンプルの岩石を持ち帰ることができたのは大きな成果でした。これまで調査が行われていなかったので、孀婦岩の石は現物が限られていて、それも、採取された地点がよくわからない状態でした。周辺の海底の石も、ごくわずかしか採取されていなかったのです」
持ち帰った石や、詳細な音波調査を実施した周辺海底の分析に大急ぎで取り組み、放送に間に合わせた。ドキュメンタリー映像としては、あの異様な岩山があれば、十分に視聴者を惹きつけられる。石塚さんの役割は、異様な奇岩がなぜ「そこにあるのか」を解説することだ。重要なのは、海底に沈んだ周辺地形がどうなっているか、ということだった。
「じつは、孀婦岩は“孤立”しているわけではなくて、海に沈んだ部分に大元があるんです。たとえて言えば、バースデーケーキ状の火山に、1本のロウソクが刺さっている状態。そのロウソクが、海上に突き出た孀婦岩なのです」
そのロウソクが、硬い安山岩からできていたことで、波の浸食に耐えて今もその姿をとどめている。つまり、孀婦岩はかつて、脂肪や筋肉のように軟らかい岩石を周囲にまとっていたのだが、波の浸食によって“骨”だけが残った状態なのだ。
「2013年から噴火を始め、どんどん成長している西之島を見ていただくと、わかりやすいと思います。あのように海底火山が成長していき、やがて活動が収束していくと、噴火によって出た周囲の玄武岩などは、軟らかいために長年の浸食によって削られていきます。
ところが、マグマ溜まりから昇ってきた『火道』とよばれる中心部分は、ゆっくりと冷えて固まるので、安山岩のような硬い岩石になる。岩石を見るとよくわかりますが、孀婦岩を構成している岩石のうち、玄武岩は気泡が残っていてもろいのに対し、安山岩は密度が高く、硬い。孀婦岩は、噴火したマグマの通り道=火道が残ったものです」
なるほど。だからあんなに細長く、尖った形をしているのか。
数千年で消える運命
孀婦岩は、直径にしてせいぜい数十mほど。それに対し、海中に沈んだ台地は4km四方に広がっている。
バースデーケーキの“土台”はどうなっているのか。
「今回、船からの音波調査によって、周辺の海底地形を詳細に調べることができました。水深200mほどのところに平らな台地状の山があり、その山は水深2000m程度の深海から立ち上がっている。これが、バースデーケーキの本体です。
台地の上部には、流れ出た溶岩の跡も何ヵ所か確認できました。噴火したとおぼしき火口もいくつかあり、孀婦岩として残った火道以外にも、火口があったようです。最も大きな火口が孀婦岩で、現在も海上に姿を現している。これらからわかることは、氷河期に波で削られた後に、ふたたび海中で噴火を起こしているということです」
このような地形は、八丈島や伊豆大島など、伊豆小笠原諸島に広く見られるという。いま島になっているところは、波で浸食された後に再噴火を起こして高い山を形成し、島へと成長した。
「もちろん、八丈島は現在もたくさん溶岩を出している活火山であり、削られてなくなる心配は当分ありません。しかし、孀婦岩は今のように波の浸食を受け続けていけば、数百年から数千年で消えてなくなるでしょう。地質学の時間感覚では、それはあっという間の出来事です。私たちは、“一瞬の奇跡”を見ていると言えるでしょうね」
数百万年から数億年のスケールで事象をとらえる地質学にすれば、数千年などまさしく一瞬だ。凝固したままのゴジラは、絶海の孤島として人知れず静かに、その姿を消すのかもしれない──。そう考えると、どうしても感傷的な気分になってしまう。なにしろ「孀婦」とは、「孤独」とか「孤立した」という意味なのだ。
漁師たちは知っていた
孀婦岩は1788年、イギリス人によって発見されたと言われる。
しかし、石塚さんによれば、近くを航行する船でさえ、実際にその姿を見る機会はなかなかないという。なんといっても、何もない大海原に100mほどの細長い岩が立っているだけなのだ。
「噴火した西之島の調査に出向く行き帰りでも、よほど意識しないと見ることはできないですね。漁師さんには昔から知られていたようですが、かんたんには近寄れない島でした」
文字どおり、取りつくシマのない存在だったのだ。
今回の調査でも、以前に産総研で撮影していた島の写真を用いてクライマーと入念な検討を行い、登るルートや岩を採取する位置などを事前に打ち合わせて航海調査に臨んだという。
番組放送用に岩石や地形の分析を行った後も、この海底地形を分析し続けているという石塚さん。孀婦岩と海底火山の成り立ちは、専門家にとっては単なる奇形の岩という以上に興味深い対象なのだ。
「伊豆諸島は、北と南では海の深さが違うんです」
ここでグーグルアースの海洋写真を使って説明しよう。
あまり見る機会はないかもしれないが、グーグルアースは、世界各国の海底調査のデータを用い、海底の地図をつくって公開している。日本近海でいえば、マリアナ海溝の深さや、伊豆大島から南へ延びる伊豆小笠原火山列島が一列に並ぶようすなど、海上からは伺うことのできない海底の姿が一目瞭然だ。
孀婦岩より南は水深が深い
「小笠原は古い地質なのでここでは省きますが、伊豆諸島の北のほうは島もあって海は浅い。それに対し、孀婦岩より南の海域は深いのです。このような水深の差がなぜ出てくるかというと、地殻の厚みがぜんぜん違うからなんです。
マントルの上に乗る地殻の厚みは、北が25〜30kmなのに対して、南は10kmくらいしかありません。それが結果的に、出てくるマグマの違いになる。できる場所の温度や圧力が影響をしていると考えられます」
日本に111ある活火山の場所を思い出してほしい。
東北地方の山並みに沿って南北に一列。九州地方でも南北に列をなす。そして、富士山から南に、伊豆小笠原諸島にもきれいに一列になった火山の列がある。
一般には「火山フロント」とよばれる、これらの列に共通するのは、プレートが沈み込む先に一列に並んでいるということだ。伊豆小笠原諸島は、東の太平洋プレートが、フィリピン海プレートの下に沈み込んだ先に並んでいる。これは、火山の成り立ちそのものを示している。
「沈み込んだ太平洋プレートが深さ90〜100kmくらいまでになると、プレート中の水分や溶けた岩などが吐き出されてきて、マグマの元になるのです。そのマグマが上昇すると火山の元となるマグマ溜まりができるので、プレート境界からある一定の距離をおいて、沈み込まれた側のプレートの上に火山ができやすくなります」
南北で海底地形が異なる理由
では、こうしてできる火山の列が、伊豆諸島の北と南ではなぜ異なるのか。
「ものすごく単純に言えば、火山の土台ができた年代の違いが原因です。孀婦岩より南のほうが新しいのです。小笠原諸島の横には、小笠原トラフという海の中の盆地(海盆)があります。ここは、海底が東西に開いてできたものではないかと考えています」
日本列島が大陸から分離していく過程で、日本海が形成されたような大地の動きと同じものでしょうか。
「はい、その小型版です。四国沖のフィリピン海でも、かつて同じことが起こりました。小笠原諸島の場合は、そうやって開いたために、地殻が薄くなっているのではないかと推測しています。推測しているだけで、まだ検証はできていませんが……」
大陸はどのようにできたのか
孀婦岩のさらに南に、活発な噴火を続ける西之島がある。こちらは、東京から南へ約1000km。伊豆小笠原の火山を研究する石塚さんにとって、西之島もまた、重要な研究対象だ。JAMSTEC(海洋研究開発機構)との共同研究で、大陸誕生の謎にせまる仮説を検証した。
もともとは海洋でおおわれていた地球から、どのようなプロセスを経て大陸が誕生したのかは、いまだ大きな謎であり、現代の地球科学では説明できていない。
海洋底を形成する岩石組成は玄武岩であるのに対して、大陸の平均組成は安山岩。安山岩質のマグマが噴出する火山によって、大陸の元が生まれたのではないかとする仮説を立て、西之島から噴出する岩石の組成を調べることで、それを検証したのだ。
西之島は、海底3000mから立ち上がる海底火山だ。そのマグマの量は、富士山をつくったマグマよりも多い。立派な海底火山が噴火によって成長し、海上に大きく顔を出している。
その西之島から噴出した岩石を調べた結果、安山岩質のマグマが噴出したものであることを確認した。西之島のような地殻の薄い海洋島弧でのみ、大陸の材料である安山岩がマントルで生成されることは、これまでの常識を変えていく大陸組成のしくみを提示する可能性があるという。
西之島の噴火を、経済水域の拡大として喜んだ政府に対して、科学者の考える話はスケールが格段に大きい。大陸誕生のモデルケースとして見ているのだ。
プレートテクトニクスに残された根源的な疑問
さらに、海底の奥底までボーリングしていく構想もある。
「まだ構想段階ですが、6kmくらいの深さまで到達できれば、なんらかのヒントが得られるかもしれないと考えています。大陸誕生の謎もそうですが、プレートテクトニクスの根源的な疑問もまだ解決されていません。
というのも、重いプレートのほうが軽いプレートの下に潜り込むという理屈はわかりますが、最初に沈み込みが始まるきっかけはなんだったのか。太平洋プレートがフィリピン海プレートの下に沈み込んだ発端は、外部からなんらかの力が働いたのか、あるいは不安定になって勝手に沈み込んでいったのか──。まったくわかっていないのです。根本的な疑問が、未解明なんですよ」
もちろん、それ以前に、孀婦岩の再調査が行われるのであれば、周辺海域のサンプル岩石をさらに増やしたいと考えている。
「いま、ざっくりと孀婦岩の海底の地質図を描いているところですが、部分によっては孀婦岩より古い火口やカルデラもあり、それらのサンプルをきちんと採って完成させたいですね。2018年は、八丈島火山地質図を刊行しましたが、これからも伊豆小笠原の火山を調べて、その全貌を明らかにしていきたいと思っています」
船旅で35時間以上も要する南の島で、数十億年におよぶ地球の成り立ちを考える──。「池の水を全部抜いてみたら何が出てくるか」という人気番組があるが、地球上の水を全部抜いてみたら何が姿を現すのか?──実際に海水がなくなったら困ってしまうが、そんな楽しい妄想をしてみたくなる研究だ。
海の底も陸上と同じように、地球の活動が続いている。海上に突き出たゴジラの背中は、その小さな痕跡を私たちに見せてくれている。