環境問題を考えるとき、問題となるのは、基準値だ。人工的に汚染されているのか、自然環境の中で存在する数値なのか。それを判断するには、もともとそこにある基準値を明らかにしておくことが必要だ。たとえば、土壌汚染や放射能汚染というとき、何を基準に考えているのだろうか。
産業技術総合研究所の地質情報研究部門には、この基準値を調査しているチームがあると聞いて訪ねた。彼らが作っているのは「地球化学図」という地図だ。地球の化学とはいったいなんだろう。
2018年10月30日掲載
取材・文 中川 隆夫
資源調査のための研究が環境問題の調査へ
疑問に答えてくれたのが、産業技術総合研究所・地球化学研究グループの3名。現研究グループ長の岡井貴司さん、長年この研究に関わる今井登さん、そして上級主任研究員の太田充恒(あつゆき)さんだ。
「地球化学図は、化学の名の通り、その土地の元素を調べるものです。サンプルとなる砂を集めてきて、それを分析し、構成する元素を調べるのです」(岡井さん)
古くは、鉱石など資源探査のために始めた研究だった。しかし、70年代後半から環境問題の調査が目的となったそうだ。
「先進国では資源が調べ尽くされてしまい、新たな鉱床は発見できなくなりました。そこで、当時問題となっていた環境汚染の調査に同じ手法が使われるようになりました」(今井さん)
1978年、イギリスが全国元素マップを作り始めたのがきっかけとなった。ヒ素や鉛など、人体に影響を及ぼす元素がどこに存在しているのか、イギリス全土で15万ヵ所を調査した。国土を1キロメートル四方の方眼状に切り分け、その1マスから1ヵ所を調査する。ひとくちに15万ヵ所といっても、十年以上はかかる国家プロジェクトだった。
「先輩が、イギリスに習って日本でも同じことをやろうとしたんです。1キロメッシュの同じ手法だと、全国をカバーするのに少なくとも30~40万ヵ所の調査ポイントが必要となります。見積もりをしたら何十億円とかかる。とてもそんなお金は出ませんでした」(今井さん)
そこで試しに、最低限の予算で北関東を調査してみた。5年間で4000ヵ所の砂を集め、地図を作った。しかし、1990年前後のコンピュータの限界から、ドットの粗い絵画のような地図で、予算的にもこれを全国に展開したいと言っても相手にされなかった。
逆転の発想からプロジェクトが動き始めた
それから数年、プロジェクト暗黒の時代が続く。大きな予算を付けるだけの理由と、それに見合う結果が具体的には見えてこなかった。細々と続けるなか、ある報告会のあとに雑談をしているときだった。1人のメンバーが「1キロメッシュにこだわる必要はないんじゃないか」と言った。
「その通りだったんです。我々は研究者としてイギリスの手法にこだわりすぎていたのかもしれない。10キロ四方なら、なんとか全国で調査する予算が付くのではないか。発想の逆転をして、取れる予算からサンプルの数を決めたんです。毎年3000万円で5年。これならなんとかなる。少ないサンプル数への不安は、全国規模ならなにかがわかるはずだというハッタリでカバーしました」(今井さん)
実直でストレートな話しっぷりが気持ちいい今井さん。予算というのは不思議なもので、最低限の数字で工夫をすればゴーサインが出るものだ。そして結果が出た。
「やってみたら、思った以上にちゃんとしたものができたんですよ」
イギリスが始めた1キロ四方を10キロ四方の粗い目にすれば、日本列島をカバーするのに30万ヵ所から3000ヵ所へと調査地点が一気に減る。この調査により、水銀やヒ素などの存在が地図上に一目でわかるようになった。
どうやって10キロメッシュの地図を作るのか
ところで、この調査は具体的にどうやるのか。まさか10キロ四方の中央点の土壌を集めていくというのか。
「川の砂を集めていきます。昔からやってきた鉱床調査の手法と同じなんです。雨によって削られた岩が川へと流れて堆積する。それを採取すると、上流全体の情報が何らかの形で入ってくるという考え方です」(今井さん)
なるほど。合理的な方法だ。特に日本のように雨が多く河川堆積物で平野が出来上がっている土地にはうってつけだ。イギリスも同じ手法だが、ノルウェーなどでは氷河堆積物を集めることもあるという。
具体的な方法を太田さんが解説してくれた。
「川のある地点で採った砂には、上流全体の情報が含まれています。ですから、均等な間隔で10キロメッシュの1点というより、流域の面積が10キロメッシュになりそうな場所を狙います。そうすると1つの試料を採るだけで川上の広い面積の情報を集めることができます。そこからさらに支流に調査点を広げていくと密度の細かいデータになります。つまり試料を採る場所を工夫することで全体の解像度を調整できます」
研究者自らスコップを持って日本全国の川へ
川の中に入っていって、スコップで砂をザクッと掬うこともあれば、河原の砂を採取することもある。都会の川になると、橋の上から採取用の機材を使って泥のような砂を掬い取ることもあるという。
「現場ではザクッとした砂を1~2キロぐらい袋に入れて、持ち帰ってからふるいにかけて一定の大きさ、だいたい0.1ミリより細かい砂を選んで分析にかけます」
昔は、現地でふるいにかけていたが、効率が悪いので、とりあえず研究所に送ることにしたという。
「なにしろ昔は、レンタカーを運転して、ポイントを移動する時間が貴重でした。日数をかければそれだけ予算がかかるので、いかにたくさん回るかが重要でしたから」(岡井さん)
現地からは、宅急便で砂を送る。それが一番早い。
「飛行機で持ち帰ったこともありますが、まず手荷物検査で引っかかります。X線装置で真っ黒に映っているので、『なんですかコレ?』と聞かれますよ。まあ、砂としか答えようがないんですが(笑)」(今井さん)
持ち帰った砂は、どうするのでしょう。
「砂を酸で溶かして、水のような溶液にして分析装置にかけます。水銀の場合は少し違いますが、他の元素は同じように溶液化して、含まれている元素を調べていきます。この分析装置もかなり高いものなんですが(笑)。でも全国図を作る頃にはこの分析装置が出来ていたので、かなり効率的に出来ました。その分、予算は装置に割かれて、全国を飛び回るのは人海戦術で乗り切ったというところです」(岡井さん)
「地図の作図にもコンピュータ・ソフトを使っていて、1990年代前半ぐらいまではたいへんでした。作図に時間はかかるし、出来上がったものを見るとモザイクにしか見えないぐらい粗かったんです」(今井さん)
地道な採取と、装置の進歩がこの化学図を作り出したのだ。
陸の次は海だ!
苦労の末に完成した「日本の地球化学図」は、2004年に発表。大きな反響があった。勝因は、全国を一覧出来ることだった。
「誰も見たことがない地図だったので、一様に驚かれました。特に自治体や工場立地を考えている会社から、そこにどのような自然汚染があるのか、みんな知りたがったのです」(今井さん)
2005年には、小池百合子大臣の時代に環境賞を受賞している。
全国プロジェクトの成功に勢いづいたメンバーは「次は海」だと考えた。川に流された砂のその先には海がある。沿海の堆積物を調べようと考えた。しかし、浅瀬とはいえ海底の砂を採取するにはちょこっと行って掬ってくるとはいかない。そこで目を付けたのが、同じ旧地質調査所の組織の中で海洋調査を行うグループだ。20~30年かけて行った海洋調査で採取した砂が同じ研究所の中にあった。
「普通では手に入らないような海に堆積した砂が5000ヵ所分、倉庫に眠っていました。これは使わない手はないでしょう」
今井さんが嬉しそうに語る。サンプルが欠けていた瀬戸内海などの浅瀬を独自調査で付け加え、陸上3000ヵ所、沿海5000ヵ所のデータをそろえて「海と陸の地球化学図」が完成したのが2010年だ。
震災前の基準となった自然放射線全国地図
約5年ごとのプロジェクトを形にしていた頃、東日本大震災が起こる。さらに福島第一原子力発電所の事故が続き、日本中で放射能汚染の不安が広がった。一般人までガイガーカウンターを持って身近な場所を測っていた。そんな中、文科省が行った空中調査の放射能数値が話題に上った。なぜか新潟県の数値が高く、それによって風評被害が広がる恐れがあった。
ところがこの数値、もともと高い場所だということがわかる。
「大地からくる放射線は、主にウランとトリウムとカリウムの3つの元素でほぼ決まるのです。我々が行ってきた化学調査で、3元素の濃度からその土地の自然界における放射線量は計算していました」(今井さん)
実際に、2004年時点でこの放射線全国地図は出来上がっていて、関係者の目に触れていた。それが公表され、新潟県に高い数字が出る理由が分かったのだ。福島第一原子力発電所の影響ではなく、自然界の放射線量が計測されただけだった。
「自然界の放射線量は、人体に直接影響を与えるほどの数値ではありません。でもあの当時は、みなさんがセンシティブになっていて、ちょっとでも高いと大騒ぎになったものです。世界から比べると、日本の自然界の放射能は高くはありません。我々が出したデータには普遍性があります。化学分析値から計算している数値ですから事故前も事故後も変わりなく、標準値となっているのです」(今井さん)
これが基準というものの重要性だろう。何か変化が起こる前に、基準を知っておくことが大切だ。そのために、3000ヵ所もの「砂」を集めては、そこにどんな元素があるのか地道に調べている人達がいるのだ。
さらに精度の高い化学図へ
ところで、5年ごとのプロジェクトは、その後どうなったのか。
「全国の陸と海を完成させたので、もう一度関東を細かくやりました。全国図の時は10キロ四方でしたが、それを3キロ四方のメッシュマップに、つまり面積比で10倍精度を高めた『関東の地球化学図』を2015年に完成させました。今回は1500~1600ヵ所の陸上調査と、東京湾の海底29ヵ所から採取した1メートルぐらいのコアの再解析を行いました」(岡井さん)
東京湾となると、そこに流れ込む河川の汚染が明確に出てくる。
「多摩川はわりときれいなんですが、荒川や江戸川はやはり1960年代~70年代にかけての工業地帯だったり、金属精錬時の廃棄物による埋め立ての影響で重金属が高くなっているようにみえます」(今井さん)
このコアには、東京湾が一番汚染された時代の記憶が残っている。一番ひどい時代に比べれば、今は改善してきているのがこの調査でもわかってきた。
また、北部には足尾銅山や旧日立鉱山の周辺で、銅や鉛、亜鉛が高濃度になっているのも見られる。
ただ、この環境汚染を告発するのが化学地図の目的ではない。客観的な化学データを提示することがこのプロジェクトの役割だ。
「このデータから、また別の専門家が分析を行ってくれればいいと思っています。我々はそのバックグラウンドとなる基礎データを高密度にとってくるのが目的です。だから環境問題に特化しているのではなく、社会基盤のデータをとるのが仕事だと思っています」(岡井さん)
関東に続いて、今現場で調査しているのは、名古屋周辺だという。
これだけ詳しく全国を調査していると、時には思いがけない問い合わせが入ってくるという。
「例えば靴の底に付いた泥が、どこの泥かを調べるのに使えませんか、と質問されたことがありましたね。そこまではちょっと……わかりませんが。でも、お米の産地を確認する補足データには使われています」(太田さん)
また、この化学データは、産業技術総合研究所のホームページですべて公開されている。産業技術総合研究所のホームページにある「地球化学図」を見ると、53の元素が日本列島にどの様に分布しているか、自然放射線はどこが高いのかが一目瞭然でわかる。
ユニークなのは、採取場所の川の砂まで一様に掲載されているところだ。インスタ映えはしないかもしれないが、これだけの川砂を集めても、それぞれに個性が出てまるで絵画のように見える。
小惑星リュウグウの土を採取するために飛行する「はやぶさ2」のように、地球の外まで土を採取しに出かける時代だが、我々の足元にも重要な情報は集積しているのだ。