もし、重さや長さの単位が地域でバラバラのままだったら、どんな世界になっていただろう。その昔、国によって寸法に差があった時代、隣国の船大工が協力して造った木造船を海に浮かべたらバラバラになってしまったという笑えない話もある。
フランスで生まれたメートル法を世界に普及させようと、1875年に世界17ヵ国で締結された「メートル条約」は、そんな悲劇を繰り返さないための先人たちの知恵だった。国の利益ではなく、世界の理解を得るため、基準となる「ものさし」は、すべての人にとって受け入れられる自然のものからとることにした。長さは、赤道から北極点までの子午線の距離を測量し、その1000万分の1を1メートルと決め、ものさしを作った。質量は、水1リットルを1キログラムとする。そしてその1キログラムを、実用的な白金の分銅に置き換えた。
1889年、質量のより変化しにくいものを造るために、当時最高の冶金技術で造ったものが今でも使われる基準の「国際キログラム原器」と呼ばれるもの。白金90%とイリジウム10%の合金製だ。世界のすべての質量は、この原器とつながっている。宇宙に飛び立つロケットも、薬の調合も、もちろんあなたが乗る体重計も、元をたどればこの原器にたどり着く。
1885年にメートル条約に加盟した日本にも「国際キログラム原器」のコピーは配布された。今では世界にこのコピーが100個近く存在し、日本にはそのうちの3個があり、産業技術総合研究所に保管されている。いま、この1キログラムの定義を改定する動きが最終コーナーに入っている。「科学者50年の夢が果たされる」というこの定義の改定ってなんだろう。なぜ改定する必要があるのか。探検隊は核心を握る人物を訪ねた。
2018年3月22日掲載
取材・文 中川隆夫
厳重に保管された「ご本尊」
その人は、産業技術総合研究所、計量標準総合センター長で国際度量衡委員の臼田孝さん。低音の声が静かに響く紳士だった。
「今年の11月に国際度量衡総会が予定されています。そこで決議されるといよいよ『国際キログラム原器』は定義としての役割を終えることになります。決まれば、来年の5月から新しい定義になります」
世界に18名いる国際度量衡委員によって改定の決議が下される予定だ。臼田さんは2012年からこの委員を務める。その臼田さんが、隣に座るもう一人の紳士を紹介してくれた。
「私が委員を務める前は、ずっと田中さんが務めてきました。改定にあたって国際プロジェクトを立ち上げたキーパーソンです」
いまは、産業技術総合研究所・研究顧問となった田中充さんは、具体的な改定に向けての国際プロジェクトがスタートしたときの中心人物だ。こちらも落ち着いた声の持ち主。多くの人をまとめ上げるということは、声の説得力も必要となる要素なのだろうか。
「遡れば、この改定に関する最初の報告は1965年の国際会議です。私が産総研に入った時にはもうスタートしていました。英国、ドイツ、アメリカが最初に手を上げ、我々日本もそれに続きました」
科学者たちが半世紀以上をかけ、追いかける定義の改定。どのような重みを持っているのか。
「質量の定義は、1889年に造られた『国際キログラム原器』そのものが根拠となっています。いわばご本尊です。これがもし壊れたりなくなったりすると、キログラムの根拠はなくなります。例えば『長さ』の定義は、光がどれだけの時間に進んだ距離という形で、1983年に改定されています。光の速度は普遍的なものですから、この定義も普遍的な確かさを持っています。ここでモノとしての1メートルのものさしは、役割を終えました。ところが、キログラムだけは130年近く分銅というモノで残っているのです」(臼田さん)
そのご本尊は、フランス・パリ郊外の国際度量衡局のなかに鎮座している。直径も高さも約39ミリ、重さ1キログラムの円筒形をしている。見たことがある人は、国際度量衡委員の他にはここの職員ぐらいだろう。秘仏と同じような扱いである。
「毎年一回、そこに存在することを確認するために委員が扉を開けます。扉には3つの鍵がかけられており、それぞれの鍵は別々の人間が持っていて、国際度量衡局の職員といえども勝手に開けられません。厳重な管理の下におかれています」(臼田さん)
その独立性は、フランス当局も許可なしでは入れない。昔、たとえ外国人の委員がここで亡くなったとしても、本国の許可がなければ遺体を運び出すこともできない。第二次世界大戦でナチス・ドイツがフランスに侵攻したときも、ここにはけして立ち入らなかったという。それだけ、このご本尊が世界の共有財産だと認識されてきたということだ。
不安定なキログラム原器
ただ、そのご本尊に、微妙な変化が起きているというのだ。その値は約50マイクログラム。1キログラムに対して1億分の5だという。
いや、ちょっと待ってほしい。ご本尊は絶対的な存在であって、その体重が減ったか増えたかはどうやって判断するのだろうか。
「ご本尊を造ったときに、同時に6個の兄弟姉妹を造り、同じ場所に保管してあります。その6個とご本尊を比較したときに、差が出ているのがわかったのです」(臼田さん)
そんなに微少な差を、どうやって比較するのでしょうか。
「天秤を使います。この天秤の精度は100億分の1の感度があるもので、もちろん世界最高のものです」
ああ、天秤だ。小学校の理科室を思い出した。小さな皿の上に、10グラムほどの分銅をピンセットで乗せたもの。先生に、絶対に指で触るな、分銅はピンセットで持てときつく言われた思い出がある。
「ちょうど、指の指紋ひとつの油脂が50マイクログラムです。それと同じぐらいの変化があったらしいのです。もちろん、ご本尊を指で触ることなどあり得ませんから、測定するときに行った洗浄が影響しているのかもしれません」(田中さん)
ご本尊の体重が減っちゃったのでしょうか。
「減ったのかどうかもわかりません。ほかの6個が増えた可能性もあります。問題の本質は、ご本尊の不安定性です。比較して違いが出たとしても、どちらが正しいと断定することができない。1キログラムの絶対値はわからないのです。世界の約束事として、このご本尊が1キログラムだと決めているわけですから」(臼田さん)
モノとしてのキログラムの基準が130年近くにわたって続いてきたのは、モノだからこそコピーを造って世界中に配布できるという利点もあった。各国の原器は、ご本尊に対して10マイクログラム+とか、-といった注意書きと共に送られている。それを30年に一度くらいの割合で、パリ郊外の国際度量衡局に持ち込み、ご本尊と比較して体重測定をおこなう。ある意味、アナログな方法で超精密なことを行ってきたのだ。今回の改定には、キログラムの安定度を高めるという意味がある。
「科学が進歩していくと、正確さへの欲求が上がってきて、国際キログラム原器の安定度が物足りなくなってきた面もあります。ナノテクノロジーの技術のような小さな値も、惑星の重さのような大きな値も、すべてこの1キログラムを基準にしています。小さい方も大きい方も、この基準の値から離れれば離れるほど誤差は大きくなります」(臼田さん)
「一方で、定義を替えるために要求される精度があまりにも高いという難しさもありました。130年で1億分の5しか変化していないものを替えるには、それ以上の精度、安定性を求められますから」(田中さん)
ゼロから1キログラムを定義するのではなく、今ある国際キログラム原器にピタリと合わせて、定義を作り上げなければならない。すでに世界中の基準はこのキログラムで決まっているのだから————。みなさん明日から1%増量です、となったら、世界はピタリと止まって1ミリも動かなくなるだろう。
「今回、ご本尊の白金イリジウムから、シリコン(ケイ素)製に変えることになったんですが、シリコンの純度を高める技術が進んだことや、計測や分析の精度が上がった。あるいは電気の計量技術の精度がグンと上がった。そういう総合力によって定義を替えられるようになった、とも言えます」(田中さん)
世界で最も丸い球体
田中さんが紹介してくれたように、新たな質量定義によって造られたモノは、シリコン製だ。パソコンなどの電化製品に使われるあの半導体シリコンだ。単結晶シリコンを使って、安定的に並んだ原子の数を数えるのだという。
原子の数を数えると簡単に書いたが、もし人間が数えていたら、数万年以上かかる。たとえてみれば、地球大の球体の中にバスケットボールを放り込んでいって、詰め込んだ数を数えるようなものだという。
そこで、原子が安定して並んでいるシリコン単結晶が登場する。この球体の大きさを厳密に測り、その体積から原子の数を割り出す。この方法でキログラムの定義をつくる国際プロジェクトがスタートしたのは2004年だ。
臼田さんをリーダーとする産業技術総合研究所、計量標準総合センターの質量、温度、電気計測の各首席研究員らがこのプロジェクトを支えてきた。
「どこか一国で決められるようなものではありませんから、国際プロジェクトになりました。新しいキログラムの定義は、2011年から2017年までに報告された8つの計測データから決められましたが、そのうち4つに日本が貢献しています。非常に満足する結果ですね」(臼田さん)
計測に使ったのは、超高精度のレーザー干渉計と表面分析システム。直径約94ミリの単結晶球体のシリコンを2000方位から計測したという。
「1原子間の精度で直径を測っています。大もとの結晶体は、ロシアの水素爆弾を造るのと同じ遠心分離機を使い、同位体の純度を99.99%に高め、ドイツで単結晶化しました。もとは5キログラムあり、そこから1キログラムの球を2個造っています。材料費だけで1キロあたり1億円かかるんです(笑)」(臼田さん)
ご本尊は円柱だったが、このシリコン単結晶体は球体だ。球体の方が精密に体積を測ることができるためだという。レーザー干渉計の中でこの球は自動的に回転しながら2000ヵ所から直径を計測。見たこともないような滑らかな球体だったという。凸凹は100原子間くらいの長さ。この球体を地球の大きさまで膨張させても、凸凹は10メートル以内に収まる。行けども行けども10メートルの高低差もない地球ほどの惑星が、宇宙のどこにあるだろうか。
「シリコンは熱膨張しますから、1原子間の距離を測るためには、温度を真空中で1万分の1の精度で制御しなければいけません。そこで産総研の温度の専門部署も関わっています」と、臼田さんが付け加えてくれた。
さらに、体積を測る方法以外にも、電気の計測技術も関連してくるのだという。
「すごくおおざっぱに言うと、電磁石で重りを持ち上げる時に流れる電流で質量を測るというような話です。電気量から力を発生させて、1キログラムを決める。この電気を定量化する技術の向上も貢献しているのです」(臼田さん)
産業技術総合研究所では、極めて微細な電流の研究を行っている。これらの研究もやはり今回の定義改定に大きく貢献した。
「それ以上細かくできないものを基準とする。それがまさに単位の理想です。電流の定義も改定される予定ですが、電子1個あたりの電荷量が基準となります。これでやっと理想的な定義になりました」(臼田さん)
メートル条約が創設されたときの単位は、長さ(メートル)と質量(キログラム)だけだった。その後、電流(アンペア)、時間(秒)、熱力学温度(ケルビン)、光度(カンデラ)、物質量(モル)が加わった。今回、質量と共に、電流、温度、物質量が再定義される。
ここまで聞いてきたように、様々な計測技術の向上がそれを可能にしてきた。
単位が変わると何が起こる!?
ところで、改定が決議されたら、パリにあるご本尊はどうなるのだろうか。
「唯一の定義という重責からは解放されますが、これまで通り測り続ける意味は薄れていません。本当に軽くなっているのか、それを今後100年でも測り続けるのは意義深い」
では、来年の5月、定義改定の日、日常において何が変わるのだろう。臼田さんは軽く笑みを浮かべながら答えてくれた。
「その瞬間には、なにも変わりません。むしろ変わったら困るのです」
たしかに、わずかであってもキログラムの数字が変わったら困る。何も変わらず、誰も気付かないのが最も正しい改定だ。
しかしサイエンスの世界では変化が起きてくるだろう。
「長さの定義改定があったときも、レーザー光のようなツールを測定に使えるようになりました。それがナノテクノロジーの実現などに寄与したわけですが、質量の場合もそういうものが出てくると思います。まあ、創薬などがターゲットになってくるでしょうね。テクノロジーが進歩すれば必ずそれをビジネスに使う人が出てくるものです」(臼田さん)
じっさい、原子間の距離を測ることができるレーザー干渉計は、シリコン単結晶体を計測した時ほどの精度は必要ないながら、光学メーカーなどから共同研究の申し出が来ているという。
材料物理の研究からこの計量の世界に入ってきたという田中さんは、産業界から頼りにされ、それに応える使命感に喜びを感じてきた。
「産業界で実際に使われることで感謝される。下支えの面白みを体感できるんですよ、計量の世界は」と田中さんは言う。
「科学者や技術者は、測ることは水や空気みたいなもので、デジタルで数字が表示されるものだと思っている人もいます。だけど、測る行為そのものを突き詰めていく面白さもあるんです。田中さんが言ったように、使命感もあります。再生医療のようにホットな研究に一気に人を投入して研究を進化させる分野もありますが、今この瞬間に世界に10人いればいいという分野もあります。でもその10人は絶対に必要な人材なんです。我々は後者です」(臼田さん)
130年前に作られた小さな白金イリジウムの円柱は、もう少し大きいツルツルの球体シリコンに代わる。しかし、これが100個近くもまたコピーされる必要はないという。
「一流のソリストは10人いれば世界の音楽のマーケットは成り立つそうです。それ以上いても大ホールは満たせない。一般に音楽を楽しむ程度なら、せいぜい音大を出たピアノの先生がいればいい。それと同じで、ソリストの実力をもった球体シリコンはそう多くは必要ないんです」(臼田さん)
なぜ単位改定に取り組むのか
1億分の5ほどの揺らぎがみえる「国際キログラム原器」を、新しい定義によって絶対的なものにする。それが今回の改定の目的だ。「今の物理学では、これ以上の精度のものはないと自負しています」と臼田さんは語る。
キログラムの実態が変わらないように、その定義だけを変える。その瞬間には我々の生活はなにも変わらない。変わらないように変えることの難しさを、田中さんや臼田さんたちは受け止めてきたのだ。
「改定にあたって、各国の意識の違いが現れましたね。ドイツは、定義改定を人類の崇高なミッションだと受け止めています。アメリカは、国家安全保障の観点からみても当然、主体的に関わる。インターネットが、もともと核戦争で司令部が壊滅しても残った基地どうしが通信できるシステムとして開発されたのと同様、単位という基準を他国に依存することはしない」(臼田さん)
「ところが日本では、プロジェクトを始めるにあたって、まず経産省に必要性をどう説明していくか、苦労しました」(田中さん)
日本はまず短期的なリターンを求めがち、ということだ。
「哲学的な意味での科学の価値。そしてそれと対極的にある戦略的なドライさ。その両方が弱いと感じます」(臼田さん)
世界が計測で出した8つの数字のうち、4つを日本が占めていたという技術の高さ。これを支えているのは科学者や技術者だ。科学雑誌ネイチャーは、このキログラムの定義改定を、重力波の検出などと並んで、物理学で最も困難な取り組みベスト5に選んだことがある。なにしろ田中さんや臼田さんたちは、1億分の5よりも高い精度を目指し、ご本尊を上回る安定度を手に入れた。明治以来、国際単位系の改定に日本が関わるのは、今回が初めてだという。
シリコン球は、ご本尊になりかわって扉の奥に鎮座するわけではない。質量は「プランク定数」という物理定数によって定義される。技術があればどこでもそれを形にできるようになる。ただ、その技術をいま持っているのは、日本、ドイツ、アメリカ、カナダだけだ。定義の改定は、見た目には変化がない。しかし足元では、その時代において最高の技術が投入されている。
臼田さんは、静かに強調した。
「究極の測定は人類に新たな知見をもたらしてきました。それに支えられている『単位』は、科学そのものなんです」