- 「お遍路の科学」で見えた
「100歳で健康」のヒント
- 100歳は通過点!
100歳を健康に生きる技術開発を目指す、
四国ならではの研究に注目!
講談社ブルーバックス編集部が、産総研の研究現場を訪ね、そこにどんな研究者がいるのか、どんなことが行われているのかをリポートする研究室探訪記コラボシリーズです。
いまこの瞬間、どんなサイエンスが生まれようとしているのか。論文や本となって発表される研究成果の裏側はどうなっているのか。研究に携わるあらゆる人にフォーカスを当てていきます。(※講談社ブルーバックスのHPとの同時掲載です。)
2017年11月17日掲載
取材・文 深川峻太郎
四国のお遍路さんを科学するのだ!
編集部からこの探検隊の業務を拝命した瞬間に、脳から興味が噴出した。なにしろ頂戴したお題は「お遍路の科学」である。もちろん、お遍路も科学もまったく知らないわけではない。しかし、その組み合わせは意表をついている。たとえばトーストと納豆は誰にとっても馴染み深いが、「納豆トースト」となれば意表をつかれる人が多いだろう。実際、私の妻も結婚当初に意表をつかれていた。私、好きなんです。納豆トースト。だからきっと、「お遍路の科学」も面白いにちがいない。わかったようなわからないような理屈だが、意表をつく研究の探検は楽しそうだ。そう思って、喜んで隊員を引き受けたのである。
「私たちの健康工学研究部門は、7年ほど前に四国を中心に発足しました。この部門では『100歳を健康に生きる技術開発』を目指しています。『100歳まで』ではなく『100歳を』。つまり、100歳はあくまでも通過点にすぎません。100歳を過ぎても、心と体がピンピンした状態で暮らせるような技術を開発したいですね」
探検に訪れた私にまずそう教えてくれたのは、産業技術総合研究所イノベーション推進本部の吉田康一さんだ。現在はつくばの本部組織で複数の研究部門を統括する立場だが、それ以前は香川県にある四国センターで健康工学部門長を務めていた。「康一」さんというお名前からしてそのポジションがよく似合うわけだが、そのとき手がけたのが「お遍路の科学」である。なるほど、四国ならではの研究テーマだ。四国では、吉田さんが「いつも白装束で歩く人たちを横目で見ながら通勤していました」というぐらい、そこらじゅうにお遍路さんがいるらしい。いわば「お遍在さん」なのだから、注目するのは自然な流れである。しかし、それが健康工学とどう結びつくのだろうか。
吉田さんの率いていた健康工学研究部門では、それ以前から、生活習慣病の予知に関する研究に取り組んでいた。いわゆる「未病」の状態を察知するには、病気の予兆を知らせるバイオマーカーを特定し、それを計測する機器を開発する必要がある。まさに「健康工学」の出番だ。お遍路の研究では被験者の健康状態を調べるので、その計測機器を組み込めるだろう。そこで装置の有効性を検証できれば、一石二鳥だ。
「ですから研究の動機は二つですね。一つは、私の個人的な興味。もう一つは、長期的に見れば健康工学研究部門でやるべき研究の集大成になること。研究チームには、脳内で出るBDNFという物質を、うつ病のバイオマーカーとして調べている人もいます。糖尿病や高血圧などの生活習慣病だけでなく、うつ病の予防も現代社会の大きな課題。そのバイオマーカーが計測できるようになれば、早期発見につながるだけでなく、うつ病でいったん長期休暇を取った人が職場に復帰するタイミングを見極めることもできるでしょう」
50項目にもおよぶ試験項目
さて、お遍路の健康増進効果をたしかめるには、被験者の血液や尿や唾液などを採取して検査を行い、お遍路の前後で数値がどう変化するかを見なければいけない。そういう「ヒト由来試料」を扱うには、倫理委員会の審査をクリアする必要があるそうだ。しかし産総研には付属病院がないため、外部の委員から厳しく審査を受ける。これにけっこう時間がかかったらしい。そんな愚痴…いや「実情」も正直に聞かせてくれた吉田さんであった。
また、被験者が歩いて回るお寺への根回しにも時間をかけたそうだ。たしかに、お寺の境内で採血したりするわけではないとはいえ、信仰としての行為に科学のメスを入れるのは、デリケートな配慮が必要だろう。結局、ヒト由来試料倫理委員会の審査をクリアし、お寺の了承を得るまでに、一年ほどかかった。思い立ったらすぐ実行!というわけにはいかないのが、科学の実験なのである。
「今回の被験者は、私自身を含めた研究者やその関係者です。みんな仕事があるので、残念ながら八十八ヵ所すべてを回るわけにはいきません。出発の1週間前から採血と採尿をやらなければならないので、それだけでもかなり手間がかかるんですよ。4日間で6~7ヵ所を回る試験を、2011年から2012年にかけて高松で2回、高知で1回、計3回実施しました。たとえば1回目の試験は、産総研四国センターを出発して、83番札所の一宮寺から88番札所の大窪寺まで(図1)。1日あたりの歩行距離は20km程度になります」
試験項目は、血液・尿・唾液検査だけでも、約50項目に及ぶ(図2)。ふつうの健康診断で計測する白血球数や赤血球数などの一般血液検査、人間ドックで計測するGOTやGPTなどの生化学検査に加えて、セロトニンやNK活性、酸化ストレスやうつ病のバイオマーカーなども対象にした。
「酸化ストレスのマーカーは、自分たちで開発したものです。酸化ストレスとは、いわゆる活性酸素が引き起こすストレスのこと。不対電子を持つ化合物をラジカルと呼びます。酸素分子自体、不対電子を二つ持つラジカル(活性酸素)です。これは化学的に不安定で、反応性が高い。そのため体内でいろいろな臓器と反応して、がんの原因になったりもします。酸化ストレスが高いほど、生活習慣病になりやすいわけです」
試験項目はほかにもある。心の変化を知るために、緊張-不安・抑うつ-落ち込み感・怒り・活気・疲労・混乱という6つの尺度で気分や感情を測定するPOMS(Profile of Mood States)という心理評価も行った。「気がはりつめる」「不安だ」「孤独でさびしい」「考えがまとまらない」「へとへとだ」などの質問に、「まったくなかった」から「非常に多くあった」まで5段階で回答するアンケート形式の調査だ。仕事中に回答したら、どれも「非常に多くあった」になってしまう人も多いかもしれない。
また、測定機器を使う試験項目も二つある。一つは、心拍変動解析。これによって、自律神経系のバランスを調べた。「自称もち肌」の吉田さんによると、歩行中も入浴中も睡眠中も地肌のあちこちに測定器を貼り付けたままなので、1回目の試験ではお肌がかぶれて大変だったそうだ。そこで2回目以降は、1ヵ所だけ貼ればOKのタイプに変更したとのことである(図3)。ちなみにその後、着るだけで心拍数や心電波形などを計測できる機能素材「hitoe」を東レとNTTが開発した。NTTドコモがそれを用いた生体情報計測用インナーウェアと計測データを利用するスマホ向けサービスを提供しているので、もし新たに試験することになれば、もち肌の人でも苦労しなくなるだろう。
もう一つの計測機器は、疲労度を解析するものだ。使うのはスマホ。インストールしたアプリで画面に表示される図形のうちの一つをチラチラとランダムに点滅させ、被験者はその図形を探してボタンを押す。「フリッカー試験」と呼ばれるテストだ。ちらつき(フリッカー)の見えやすさの度合いで、疲労度が定量化できるのである。このソフトは、すでにベンチャーを起こしてビジネス化されている。たとえば長距離トラックの運転手がこれで自分の疲労度を計測すれば、休憩すべきタイミングも明確になるだろう。
1日20kmも歩いたのに疲れない
「私たち被験者は、八十八ヵ所を4回以上巡礼すると資格が与えられる『先達さん』に引率してもらいました。だから、お賽銭も正式な作法どおり、1ヵ所のお堂に1円玉1枚、5円玉1枚、10円玉1枚を入れましたよ。どのお寺も本堂の隣にもう一つお堂(弘法大師空海を祀る大師堂)があるので、一つの札所ごとに32円という計算になりますね(笑)。小銭を揃えるのが面倒なので、そこまでちゃんとやる人は少ないですが」
札所に到着すると、そのお賽銭を入れ、二つのお堂でお経を読む。合わせて1時間ほどかかるそうだ。吉田さんは不慣れな読経が「最初は照れ臭くて集中できなかった」が、日を追うごとに仕事でやっていることを忘れて「無心になれた」という。1日で回れる札所は2ヵ所か3ヵ所。2~3時間もお経を読むのは、けっこうな非日常感だろう。
「3回のお遍路試験の結果、まず心理評価(POMS)で統計的に有意なデータが取れました。一つは、出発前よりも緊張-不安が低下したこと(図4)。グラフを見ればわかるように、1日目、2日目、3日目と順に数値が下がっています。4日目はやや上がっていますが、これは統計的に有意ではなく、ほぼ3日目と同程度と見なせますね。また、疲労感には有意な差が認められません。1日20kmも歩き、読経などもしているのに、主観的には疲労を感じていないということです(図5)」
さらに驚くべきことに、肉体的な疲労度を測定するフリッカー試験でも、有意な差は見られなかった。毎日、朝、昼、夕方の3回測定したが、1日の中でも疲労感に大きな差はなかったというのである。20kmも歩いて、体が疲れない。じつに不思議である。
なんとNK細胞が活性化!
「また、起床直後に採取する尿中アドレナリンの数値にも大きな変化が見られました(図6)。2日目に急激にアドレナリンの量が低下していますが、これは交感神経活動の低下を意味していると考えられます。よく、興奮すると『アドレナリンが出た』といいますよね。それが出ていないということは、簡単にいうと興奮していない。したがって、落ち着いてゆっくりと安眠できている可能性もあるでしょう。一方、昼間の活動時に計測した心拍変動を見ると、当然ながら心拍数が上がっており、これは交感神経が優位になっていることを示しています(図7左)。これに対して、心拍から計算した値を使って、自律神経活動のうち交感神経と副交感神経のどちらが優位になっているかも見ました(図7右)。縦軸のHFnuという数値が高いほど、副交感神経優位だといえます。たとえば遊園地やお笑い番組で弾むような楽しさを感じると副交感神経優位になるので、お遍路もそうなるかと思ったのですが、こちらは有意な変動がありませんでした」
やや残念そうな吉田さんだが、まあ、お経を読みながらお寺を歩いて回って「弾むような楽しさ」を感じるのもいかがなものかと思うので、それはそういうものかもしれない。
それより何より特筆すべき健康増進効果は、「NK(ナチュラルキラー)細胞の活性化」である。NK細胞といえば、がん細胞やウイルス感染細胞などを攻撃してくれる免疫細胞として有名だ。その頼もしい名前からして、私の中では「正義の味方」みたいなイメージもある。それが「シュワッチ!」と活性化するなら朗報だ。
グラフを見ると、NK細胞の活性は、お遍路試験の最中は一時的に低下している。ところが、お遍路試験を終えた1週間後には試験前よりも上昇した!(図8)
吉田さんによると、ほかの免疫系マーカーも、お遍路によって活性化することがわかったそうだ。身も心も疲労度が少なく、興奮がおさまり、免疫力もアップする。「お遍路は健康によい」ことが、この試験によって裏付けられたのである。
だが、ここで素朴な疑問を抱いた人も多いだろう。「これは、お遍路じゃないとダメなのか?」──私も同じことを考えたので、吉田さんに聞いてみた。この試験と同じ日数をかけて同じ距離を単にウォーキングした場合は、どんな数値が出るんですか?
「実は、まだそれをやれていないんです。今回のお遍路試験は、本試験に向けたプレ試験という位置づけでした。そこで期待どおりの結果が得られたので、次はいろいろな対照実験をやらなければいけません。単なるウォーキングと比較するのはもちろん、逆にバスや車で巡礼するお遍路さんの試験をやれば、身体的な運動による効果を除いた心理的な効果を見ることができるでしょう。個人的には、お寺でお経を唱えることの効果は大きいような気がしているんですよ。また、私たちは仕事として研究目的で歩いたので、一般のお遍路さんとは違うかもしれません。一般のお遍路さんの中にも、企業研修として会社の命令でやる人もいます。それも疲労度などが違う可能性がありますよね(笑)」
つまり、「お遍路の科学」はまだ始まったばかりなのである。私としては、お賽銭を正式な作法どおり入れたかどうかによる違いも知りたい。その対照実験で「伝統的な作法を守ると健康に良い」ことが証明されたら、大発見じゃないですか! しかし吉田さんが人事異動でつくば勤務になったため、いまは研究が中断している。残念だ。
「健康工学研究部門で開発している計測機器の検証をするためにも、できるだけ早く再開させたいですね。お寺の協力が得られれば、10ヵ所ぐらいの札所に装置を置かせていただいて、一般のお遍路さんのデータを取ることもできるでしょう。最終的には、その研究結果をもとにして、フィットネスクラブなどでお遍路を擬似体験できるバーチャルリアリティをつくれるんじゃないかと思っています」
それと同時に、この研究を通じてバイオマーカーや計測機器が進歩すれば、お遍路のみならず、たとえば音楽フェス、ボランティア活動、新婚旅行など、本来は健康が目的ではないイベントの意外な健康増進効果を明らかにできるかもしれない。「体にいい新婚旅行」をやりたい人がいるかどうかは知りません。ともかく、自分が100歳になるまでにどこまで研究が進むかを楽しみに見守りたいと思う。