モノの個別性で個体管理する「人工物メトリクス」
モノの個別性で個体管理する「人工物メトリクス」

2026/01/28
モノの個別性で個体管理する「人工物メトリクス」 産総研とリンテックの協働で半導体チップ適用からその先へ
私たち人間が顔や指紋で個人を識別できるように、一見同じように見える人工製品にも、実は個別性が存在する。例えば、肉眼では見えないほどの印刷時の揺らぎや、衝撃を与えたときの振動の仕方などをカメラやセンサーで捉えると、微細な違いが見つけられるのだ。これらの違いを、例えば人間の指紋と同じように識別して、個体管理を行う技術が人工物メトリクスだ。産総研のサイバーフィジカルセキュリティ研究部門(CPSEC)では、人工物メトリクスの技術的な研究を進めると同時に、国内外における標準化も主導してきた。個体識別により偽造品などを見分けられる人工物メトリクスは、人工物の真贋判定に加えて、サプライチェーンの強靱化につながるセキュリティー技術としても期待されている。2022年にはISO、2024年にはJISで、標準化が完了した人工物メトリクスについて、その意義や標準の必要性、さらにはJIS制定による国内での利用拡大などの状況を紹介する。
モノに備わる個別性を使って個体を管理
近年、バイオメトリクスという言葉を目にする機会が増えてきた。いわゆる生体認証の総称であり、例えば銀行ATMでの指静脈認証や、空港における顔認証による入出国審査など、私たちの生活のなかでも当たり前に使われるようになってきたものだ。
現在、産総研のフェローで、これまでサイバーフィジカルセキュリティーの研究組織を率いてきた松本勉は、「私たちは、バイオメトリクスと呼ばれる、指紋、虹彩、歩き方、音声などを使ってヒトを同定・認証する技術をモノにも応用できないかと考え、『人工物メトリクス』という概念と技術体系を提案しました」と、説明する。
人工物メトリクスとは、物体表面の微細構造をカメラで微細に観察したり、センシングしたりすることで、外見上は同じに見える複数の製品を、それぞれ異なる個体として識別・認証できるようにする技術。こうした個体識別の研究は以前から行われており、一部では実用化もされていた。
松本は、「カメラで物体の表面を見るだけでなく、光センサーなどを使えば、内部の構造まで読み取ることも可能です。大量生産された製品であってもその製品一つひとつが、磁気特性や振動特性といった固有の物理的特性を持っており、物理的な実体がある限り、必ず何らかの“個別性”が存在します。この個別性に着目したのが、人工物メトリクスによる個体管理技術です」と、説明する。
人工物メトリクスは、高精度な個体識別により、製品の真贋判定や偽造品の流通防止といったセキュリティー用途に活用できる。さらに、近年注目されるサーキュラーエコノミー(循環経済)の文脈においては、製造から使用までの工程だけでなく、廃棄後のリユース段階でも製品の来歴情報が重視される。そのため、モノを個体として識別できる技術へのニーズは、今後ますます高まっていくと考えられる。
人工物メトリクスの仕組み
人工物メトリクスは国際標準からJIS規格へ
この人工物メトリクスによる個体管理技術は、最近になって標準化が完了した。2022年12月に国際標準化機構(ISO)によって国際規格として制定され、2024年11月には日本産業規格(JIS)としても正式に制定された。類似の技術自体は以前から存在し、微細構造物の識別やIDやシリアル番号をつけにくい物の偽造防止などの用途で一部実用化もされていたが、当時は物体指紋や紙指紋といった呼び名で語られることが多く、類似の技術であってもそれぞれ異なる分野で使われていたり、同じ技術内容が異なる用語で扱われていたりした。
「モノの個別性から同定や認証を行う仕組みは、偽造防止技術として語られたり、要素技術ごとにバラバラに議論されていたりして、分野横断的に共通言語がない状況が続いていました。だからこそ、異なる背景を持つ関係者が、同じ概念と言葉でコミュニケーションを取れるように標準化を進める必要性があったのです」と語る松本は、横浜国立大学で情報セキュリティー分野の研究・教育に携わる一方、日本銀行の金融研究所でも客員研究員として活動していた。そうした活動を続ける中で、分野を超えて共有できる共通の概念として、“モノの個体識別技術”に名前を与える必要があると感じ、「人工物メトリクス」という名称を提唱した。これについて松本は、「生体認証がバイオメトリクスならば、それに倣った人工物メトリクスと呼ぶことがふさわしいと考えました」と話す。
名称の統一に加え、日本の研究者や民間企業からは、「人工物メトリクスを導入する際に検討するべき項目が整理された、よりどころとなる標準が必要だ」と言う声が高まり、関係者が連携して国際標準づくりに乗り出すことになった。ISOでの検討が始まり、松本が提案した「人工物メトリクス(Artifact Metrics)」が、中立的かつ汎用的なタイトルとして正式に採用された。
産総研が主導した人工物メトリクスの標準化
業界が異なっていても、共通言語で技術を適用するために不可欠な標準。その整備はどのように進んだのだろうか。
まず産総研が、人工物メトリクスの導入にあたって、現場の専門家が参考にできる具体的な技術的・運用的な指針として「人工物メトリクスを用いた個体管理技術ガイダンス」と題した独自の技術ガイドラインを作成し、2022年1月に発行。その知見を基に、ISOやJISに必要な要素を厳選して標準化を進め、ISO規格を基に日本語への翻訳と整理を進めJIS規格を整備していった。
こうした流れを後押ししたのが、産総研CPSECと、それに連携した日本の企業・団体の活動だった。電子機器、半導体、自動車、医療機器といった国際取引が前提となる業界では、英語のISO規格をそのまま国内に導入することで、製造基準の共通化が進めやすい。しかし国内の実務においては、日本語でのやりとりや日本独自の法規制、業界慣行への対応が求められる場面も少なくない。
こうした日本企業の課題に対応するべくJIS規格化を主導したのが、日本規格協会の規格開発エキスパートであるCPSEC総括研究主幹の古原和邦だ。
古原は、「人工物メトリクスは用途も多様で、それだけに、ただ『人工物メトリクスを使う』だけでは、話がかみ合わなくなることがあります。例えば、微細な半導体チップの個体識別に人工物メトリクスの技術を使いたいユーザーと、高級腕時計の真贋判別に適用したいユーザーでは、技術導入にあたってどんな検討が必要かは大きく異なります。どのくらいの精度が必要なのか、その用途の前提は何なのか、といった課題の背景を共有するには、検討項目を整理した標準が必要でした。しかし、ISOの標準は英語です。日本企業同士で契約書や試験仕様書をやりとりするには、用語や定義を統一し、同じ用語を同じ意味で使えるように整えた日本語の標準が欠かせません。実務的な視点から使いやすいJIS規格になるように努めました」と語る。
古原は、JIS化における必要なプロセスを主導して奔走。ISOの国際標準とJISの規格を“内容的に完全一致するかたち”でありつつも、自然な日本語としても通用する表現にすることに苦心した。さらに、密接に関連する既存の「バイオメトリクス」の標準とも整合をとりながら、検討委員の企業らメンバーと協力してまとめ上げ、国際規格の整備から約2年後の2024年11月、JIS制定にこぎつけた。
人工物メトリクスのユーザー側として、また技術提供側としての双方の立場から標準化に関わった企業の一つが、粘着素材や関連機器を開発・製造・販売するリンテック株式会社である。同社は、半導体製造工程に用いられるシリコンウエハーの裏面保護テープにおいて、業界で標準的に使われるデファクトスタンダードの地位を築いている。事業統括本部次世代技術革新室の髙野健は、「JIS化される前は、例えば『照合』という言葉一つとっても、どこまでの範囲を指すのかが人によってあいまいで、業界ごとに異なる言葉が使われている、いわば“用語の方言”が多い状態でした。そのため論文を引きながら手探りで用語を使っていたような状況でした。ですが、日本語での標準が整備されたことで、用語のばらつきが統一され、定義を確認しやすくなり、関係者間の意思疎通が円滑になりました」とその影響を語る。
半導体部品の個体管理などで実用化に照準
人工物メトリクスによる個体管理技術の実用化を目指すリンテックの髙野は、同社での応用について次のように語る。
「リンテックは、半導体ウエハーの裏面を保護する高機能材料を提供しており、当該分野ではデファクトスタンダードとして広く利用されています。この材料はウエハーを切り出して個々の小さな半導体チップになった後もチップを保護し続けています。このチップの裏面保護材にインクジェット印字する際に自然に生じる、印字状態の微細な“揺らぎ”を人工物メトリクスで捉えることで、半導体チップの個体管理が可能になります」
シリコンウエハーの裏面保護材はウエハーの裏面に樹脂層を形成することで、キズや欠けなどの物理的ダメージを防ぎ、光による誤作動を抑止。さらにレーザー刻印時にもシリコン本体が削れるのを防ぎ、製品の長寿命化や安定動作をサポートする。
この技術は現在、実用化に向けた検討が進められている段階だが、微細な半導体チップの個体識別や偽造防止に対して大きな可能性をもっている。
人工物メトリクスの特徴は、「人為的に個別の模様をつける(印刷する)」のではなく、「自然に生じる微細な違いを識別する」ことにある。 髙野は「人間が意図的に調整して作るような個別性であれば、同じように複製されてしまいます。人工物メトリクスでは、人間の調整を超えた“自然なばらつき”を利用することで、コピーできない個体管理が可能になります」と、期待を語る。
インクジェットの印字ばらつきを利用した人工物メトリクスの例。同じデジタルデータの印字内容でも、それぞれに固有の特徴があり、同じ生産ロットでも個別に見分けることができる。
松本も、次のように述べる。「同様の技術は以前から使われてきましたが、標準化されたことで『人工物メトリクスを用いている』とはっきり言えるようになったことは大きな進展です。特に、大量に流通するサプライ品などに偽造品が混じると、機器の故障や重大なトラブルの原因になります。そうした場面では個体管理技術が不可欠。一方で、半導体チップのように微細な製品では、IDを刻印したり目印をつけたりするのが難しいのが現実です。人工物メトリクスを用いれば、そうした製品においても1個ずつ確実に識別・管理することが可能になります」
実用化に向けた動きも進みつつあるが、セキュリティー分野に関わる技術だけに、導入を検討する企業の中には慎重な姿勢をとるところもある。松本は、「産総研に相談に来られる方もいますが、『人工物メトリクスに関心があること自体を他社に知られたくない。秘密裏に技術を取得したい』という声もあります」と話す。こうした事情から、実用化事例を広く公開して普及を促すことが難しい側面もある。
そうしたなかでも、産総研では、人工物メトリクスの普及に向けた情報発信を強化。2025年2月に開催したシンポジウムでは、技術紹介だけでなく半導体産業におけるセキュリティー課題の動向に加え、リンテックを含む実際の開発事例を紹介。古原は「『人工物メトリクスの使い方が具体的に理解できた。JIS規格に従えば共通の方法で導入できると実感できた』といった反響もあり、確実に関心を持つ企業が増えていることを実感しています」と語る。
人工物メトリクス技術を適用した半導体ウエハーの裏面。この黒い保護材にインクジェット印字する際の揺らぎから個別性を確認し、半導体チップの個体管理を行う。ウエハーが切り出されて小さな半導体チップなどの部品になっても裏面保護材はチップを保護し続け、その印字から継続的な個体管理が可能となる。
産総研が人工物メトリクスに取り組む意義
ISOおよびJISによる標準化が完了した人工物メトリクス。国内外での活用に向けた基盤が整いつつある。
古原は、「国内でもJISとして正式に規格化され、ドキュメントを読めば基本的な理解が得られるようになりました。これは大きな前進ですが、実際には試験仕様をどう作るか、高度な攻撃に対する耐性をどう確保するかなど、標準だけではカバーしきれない部分もあります。産総研では評価装置もありますし、具体的な技術相談にも対応できます」と、標準化後の実用化フェーズでも、産総研が果たす役割があることを強調する。
髙野は、「社内でも当初は、人工物メトリクスという言葉がなかなか通じなかったのですが、JIS規格ができたことで説明しやすくなりました」と語る。そして半導体分野(セキュリティー)にとどまらない可能性についても触れる。「医薬品・医療機器、食品・飲料といった高額品や高い安全性が求められる製品分野において、偽造品の流通防止に役立てることで、消費者保護にも貢献できると考えています。社会的意義のある技術だと感じています」と、さらなる用途の広がりに期待を寄せる。
ようやく名称が統一され、標準化という第一歩を踏み出した人工物メトリクス。これからの社会で、ますます重要な役割を担っていく可能性を秘めた技術だ。
松本は、「今は、インクジェットプリンターから出るインクの一滴でも識別できるような技術の開発に取り組んでいます。実用化にはまだ時間がかかりますが、こうした技術が進展すれば、ほぼあらゆるモノに対して人工物メトリクスによる個体管理技術が可能になるでしょう。関心がある方はぜひお問い合わせください。標準化の取り組みで蓄えられた知見があり、企業連携に強みを持つ産総研であれば、力強く技術導入を支えられます」と、意気込む。産総研とリンテックらが協働するチームは、人工物メトリクスが普及する未来を見据えて前進を続けていく。
リンテックと産総研のプロジェクトメンバーが、産総研内の実験室で、共に研究を推進中。
産業技術総合研究所
フェロー
松本 勉
Matsumoto Tsutomu
情報・人間工学領域
サイバーフィジカルセキュリティ研究部門
総括研究主幹
古原 和邦
Kobara Kazukuni
リンテック株式会社
文京春日オフィス
事業統括本部
次世代技術革新室
髙野 健
Takano Ken
謝辞
本発表における成果の一部は、NEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の委託事業「経済安全保障重要技術 育成プログラム/半導体・電子機器等のハードウェアにおける不正機能排除のための検証基盤の確立」 (JPNP23013) において得られたものである。
産総研
情報・人間工学領域
サイバーフィジカルセキュリティ研究部門
リンテック株式会社