独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 野間口 有】(以下「産総研」という)計測標準研究部門【研究部門長 三木 幸信】は、フランス、イタリア、オーストラリア、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、欧州委員会の計量標準研究機関との国際研究協力(アボガドロ国際プロジェクト)により、
アボガドロ定数の高精度化に成功した。
アボガドロ定数は1 モル(mol)の物質に含まれる原子や分子などの数であり、物理学や化学の分野で用いられる重要な基礎物理定数の一つである。アボガドロ定数の高精度測定により、現在、国際キログラム原器という分銅で定義されている質量の単位を、原子一個あたりの質量に基づき再定義できる。アボガドロ国際プロジェクトではシリコン(ケイ素)の同位体の一つである28Siだけを濃縮した結晶を製作し、その密度、格子定数、モル質量を測定して、X線結晶密度法によりアボガドロ定数を決定した。産総研では新たに開発した光の波長をチューニングするシステムを備えたレーザー干渉計により質量1 kgの28Si単結晶球体の形状を1ナノメートルの精度で測定し、その体積と密度を決定した。国際研究協力によって得られた格子定数およびモル質量の値と密度の値を組み合わせることで、アボガドロ定数をこれまでより一桁良い精度(3×10-8)で決定することに成功した。この結果は米国の科学論文誌(Physical Review Letters、2011年、106巻、030801頁)に発表されている。
産総研などによるアボガドロ定数高精度化を受け、2011年10月に開催された国際度量衡総会において、国際キログラム原器を将来廃止し、基礎物理定数によるキログラムの再定義を実施する合意が得られた。近代度量衡の歴史で初めて、人工物に頼らない質量標準の確立が現実的なものとなっている。
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写真1: 産総研で開発した光の波長の精密制御によりシリコン球体の形状を
ナノメートルの精度で計測するレーザー干渉計
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国際単位系(SI)は、長さ、質量、時間、電流、温度、光度、物質量に対応する7つの基本単位(m、kg、s、A、K、cd、mol)とその組立単位などからなる世界共通の単位系であり、その始まりは近代度量衡の礎となる1875年の
メートル条約の成立にまでさかのぼることができる。1889年の記念すべき第1回国際度量衡総会では、白金イリジウム合金製のメートル原器とキログラム原器がそれぞれ長さと質量の単位として承認されている。その後は、整備拡充とともに定義改定も進められ、長さの単位メートルにおいては、これまでに2度の大きな改定が行われた。1960年のクリプトンランプの波長への定義移行と国際メートル原器の廃止、ならびに、1983年の光が真空中を伝わる行程の長さを基準とする新定義への移行の2度である。
一方、キログラムの定義においては、その誕生から120 年以上経過した現在でも、世界に一つしかない国際キログラム原器(International Prototype of the Kilogram)が未だその基準として用いられている。国際キログラム原器はパリ郊外にある国際度量衡局(BIPM)に保管され、世界の質量標準は国際キログラム原器との定期的な校正によって値付けされた各国のキログラム原器との比較の連鎖によって維持・管理されている。しかし、表面汚染や損耗などの影響により、国際キログラム原器の質量の長期安定性は50 µg 程度であると推定されている。これは1 kg に対して相対的に5×10-8のわずかな変動幅に相当するが、近年の計測技術の進展においては無視しえない大きさとなりつつあり、キログラムの定義もメートルのようにその基準を基礎物理定数へと移行させることが国際度量衡委員会(CIPM)などで検討されてきた。
キログラムの基礎物理定数を用いた再定義案としては、原子の数から質量を決めるアボガドロ定数に基づくもののほかにも、相対論と光電効果から光子のエネルギーと質量を関連づけるプランク定数に基づくものが検討されている。このため、この2つの定数を国際キログラム原器の長期安定性(5×10-8)を上回る精度で決定することがキログラムの再定義のために切望されていた。 日常生活では、基礎物理定数によるキログラム再定義の影響を直接感ずることはほとんどないと考えられる。ただし、レーザーによるメートルの再定義が、ナノメートルオーダーでの正確な長さ測定を可能とし、原子レベルで物質を制御する「ナノテクノロジー」の土台を築いた例もある。基礎物理定数による正確な質量標準の実現も、原子レベルでの正確な質量測定の基盤技術などを通して、「ナノテクノロジー」を含む先端科学や産業技術に大きなブレークスルーやイノベーションをもたらす可能性を秘めている。
産総研は、約40年前にシリコンを用いたアボガドロ定数の精密測定に着手した。シリコンは高純度、無欠陥の大型単結晶が比較的容易に得られ、これまでの半導体研究などによってその物理的性質がよく知られているという利点がある。現行のモルは
質量数12の炭素原子(
12C)によって定義されているが、
12Cとシリコン原子との質量比は高い精度で測定されていることから、シリコン結晶を用いても1 モルの物質に含まれる原子や分子などの数であるアボガドロ定数を高精度に決定できる。
当初はシリコン結晶の格子定数を測る実験からスタートした。1987年、シリコン結晶を極めて真球に近い球体に研磨する技術が開発され、シリコン結晶の密度を高い精度で測ることが可能となった。産総研では、数十ナノメートルの真球度で超精密研磨された質量1 kgのシリコン球体の形状を測定するレーザー干渉計を開発した。1994年には世界で最初に真空中でシリコン球体の密度を測ることに成功し、空気の屈折率の影響を受けることなく密度を測定することで固体密度の世界最高測定精度を達成した。
また、シリコンには質量数の異なる3種類の安定同位体28Si、29Si、30Siが存在するため、そのモル質量(平均原子量)を決めるためには同位体存在比を精密に測定する必要がある。2003年には欧州委員会の標準物質計測研究所【所長 Krzysztof Maruszewski】(Institute for Reference Materials and Measurements、IRMM)との協力によりシリコンのモル質量を測定し、アボガドロ定数を 2×10-7という当時最小の相対不確かさで測定することに成功した(2004年1月20日産総研プレス発表)。しかし、その後はモル質量の測定精度が制約となり、これ以上の精度向上は望めなかった。
この問題を解決するために7つの計量標準研究機関と協力して、28Siだけを濃縮したシリコン単結晶からアボガドロ定数を決めるためのアボガドロ国際プロジェクトを2004年から開始した。アボガドロ国際プロジェクトには、産総研のほかに、BIPM【局長 Michael Kühne】(Bureau International des Poids et Measures)、イタリア計量研究所【所長 Alberto Carpinteri】(Istituto Nazionale di Ricerca Metrologica、INRIM)、IRMM、オーストラリア計量研究所【所長 Laurie Besley】(National Measurement Institute、NMIA)、英国物理研究所【所長 Brian Bowsher】(National Physical Laboratory、NPL)、米国標準技術研究所【所長 Patrick Gallagher】(National Institute of Standard and Technology、NIST)、ドイツ物理工学研究所【所長 Joachim Ullrich】(Physikalisch-Technische Bundesanstalt、PTB)が参加し、それぞれの機関が得意とする分野を担当する国際分業によりプロジェクトを遂行した。
アボガドロ国際プロジェクトでは、まず、2年をかけて原料となる四フッ化ケイ素(
28SiF
4)をロシアの遠心分離技術で99.99 %まで濃縮し、2007年に5 kgの
28Si単結晶が完成した。この結晶から直径94 mm、真球度7 nm、質量1 kgの球体が2個研磨された。この球体の密度を決定するために、産総研では新たに光の波長の精密制御によりシリコン球体の形状を1ナノメートルの精度で測定するレーザー干渉計を開発した(写真1)。この干渉計は正確な球体形状測定のためにシリコン球体温度を0.001 ℃より良い精度で制御・計測するシステムを備えた真空チャンバーに格納される(図1)。
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図1 : シリコン球体形状を計測するレーザー干渉計を格納する真空チャンバー
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正確な形状測定のために、0.001 ℃より良い精度で球体温度を制御・計測するシステムを備える。
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さらに、正確な体積測定のために、X線反射率法と分光エリプソメトリーを組み合わせた表面分析法を開発し、球体表面上の酸化膜の厚さを精密測定した(写真2)。球体の密度値は、表面酸化膜の影響を補正した体積と質量の測定結果から決定された。また、結晶評価として、大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構の施設を利用し、格子定数の結晶中での均一性の確認を行った。最終的に産総研を含むプロジェクト参加研究機関による密度、格子定数およびモル質量の測定値から、アボガドロ定数をこれまでよりも一桁良い精度である3.0×10-8で決定した。国際アボガドロプロジェクトは、この結果を米国の科学論文誌に発表した。決定したアボガドロ定数は、2011年6月に公開された科学技術データ委員会(CODATA)による基礎物理定数調整のためのデータとして採用されている。
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写真2 : 28Si同位体濃縮球体表面分析に用いた分光エリプソメーター(左)とX線反射率法による膜厚測定装置(右)
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産総研での薄膜標準物質の供給に用いているX線反射率法による膜厚測定装置で値付けした標準物質で
分光エリプソメーターを校正することで、国家計量標準にトレーサブルな球体表面分析が可能。
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2007年にNISTは、ジョセフソン効果と量子ホール効果から決められる電圧と電気抵抗の測定から、プランク定数をワットバランス法により直接実験的に測定し、3.6×10-8の精度で決定している。今回のアボガドロ定数の高精度化により、アボガドロ定数とプランク定数の双方の測定精度が5×10-8を上回ったことになる。これを受け、2011年10月に開催されたメートル条約の最高議決機関である国際度量衡総会において、国際キログラム原器を将来廃止し、基礎物理定数によるキログラムの再定義を実施する方向性を示す決議が採択された。これにより、歴史上初めて人工物ではなくアボガドロ定数やプランク定数といった普遍的な物理定数による質量標準の確立が現実のものとなりつつある。
国際度量衡総会でのキログラムの再定義の議論においては、シリコン結晶から得られたアボガドロ定数と、ジョセフソン効果や量子ホール効果に基づく電気標準から得られたプランク定数を介して導かれたアボガドロ定数とが比較された(図2)。アボガドロ国際プロジェクトの測定値は誤差の範囲でNPLおよびスイス連邦計量研究所(Bundesamt für Metrologie、METAS)によって得られたデータとは一致するが、ワットバランス法によって決定された最も精度の良いデータであるNISTのデータとは一致せず、7桁目で異なる。この不一致が2011年10月の国際度量衡総会でキログラム再定義が実施されなかった最大の原因であり、今後それぞれの方法を高精度化し、この差の原因を究明するための複数の国際研究協力が実施される予定である。
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図2 : 異なる測定原理によって決定されたアボガドロ定数の比較
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各データ上のバーは実験データの標準不確かさを表す。NIST-07: NISTのワットバランス法によるプランク定数の測定
(2007年)、NPL-10: NPLのワットバランス法によるプランク定数の測定(2010年)、METAS-11: METASの
ワットバランス法による測定(2011年)、IAC-11: アボガドロ国際プロジェクトによる測定(2011年)。
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シリコン結晶からのアボガドロ定数決定に関しては、産総研、BIPM、INRIM、NMIA、PTBの5研究機関による新たな国際研究協力が2012年より開始される。28Si同位体濃縮シリコン球体の体積測定の高精度化などにより、さらに高精度なアボガドロ定数測定が期待されている。ワットバランス法によるプランク定数に関しては、NIST、NPLおよびMETAS以外にフランス国立計量研究所(Laboratoire National de Metrologie et D’essais、LNE)およびカナダ国立研究機構(National Research Council Canada、NRC)においても測定が進んでいる。これらの多くの独立した高精度実験に基づき、X線結晶密度法とワットバランス法の不一致の原因の解明が行われる予定である。