- イッテルビウム原子の新たな時計遷移について、直接励起の絶対周波数を世界で初めて12桁まで測定
- 既存の時計遷移との同時運用により光格子時計の精度向上へ
- さらなる精密分光が微細構造定数の時間変化や暗黒物質探索などの新たな道を開拓
イッテルビウム原子(Yb)の既存の時計遷移と新たな時計遷移を相互比較することで光格子時計の高精度化を実現し、秒の定義改定への貢献を目指します。
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という) 物理計測標準研究部門 時間標準研究グループ 川崎瑛生 研究員、小林拓実 主任研究員、西山明子 研究員、田邊健彦 研究グループ付、安田正美 研究グループ長は、イッテルビウム原子の波長431 nmの時計遷移の直接励起を観測し、その周波数の絶対値を世界で初めて測定することに成功しました。イッテルビウム原子には、すでに周波数の絶対値が知られている別の時計遷移があり、光格子時計で刻まれる時間周波数の基準として使われています。今回新たに絶対周波数を測定された時計遷移は、光格子時計に組み込むことで、環境外乱による時間の基準の変動を抑え、その高精度化に貢献することができます。
時計遷移は共鳴する周波数の幅が1 mHz未満と極めて狭く、実験的に観測するためには1 GHz以上の周波数幅の中で探す必要があることから、「砂漠の中から針を探す」と例えられるほど困難なものです。そして、その周波数の絶対値を知ることは、「針」のある位置の「座標」を知ることにあたり、別の人が時計遷移を観測するための強力な手がかりとなります。今回、新たな時計遷移の周波数の絶対値を測定し公表することで、世界中で光格子時計の開発者が容易にこの時計遷移を観測し、利用できるようになります。その結果、世界中で光格子時計の高精度化の研究が進み、秒の再定義に向けた取り組みの加速が期待されます。
この観測の詳細は2023年6月15日(米国東部夏時間)にPhysical Review A誌に掲載されました。
現在の国際単位系(SI)における時間の単位「秒」は、マイクロ波の周波数を基準とするセシウム原子時計によって実現されています。一方、我が国で発明された光の周波数を基準とする光格子時計、とりわけイッテルビウム原子を用いたイッテルビウム光格子時計はセシウム原子時計よりも2桁高い精度をもち、秒の再定義候補として有力視されています。
このイッテルビウム光格子時計で用いられる、波長578 nmの時計遷移は、電磁場や温度などの環境外乱の影響を受けにくく、安定度の高い周波数の基準の実現に適しています。しかし近年になって、遷移周波数の測定精度向上に伴い、温度などの環境のわずかな変化が遷移周波数の測定値に影響することがわかってきました。これはイッテルビウム光格子時計の長期運用にあたって大きな課題となります。この課題の解決法の一つとして、環境の変化に対して感度の高い別の遷移周波数を精密に測定することで、環境外乱の影響を補正することが可能となります。最近直接観測された波長431 nmにある新しい時計遷移(参考文献1)は、環境外乱の影響を受けやすいことがわかっているため、それを用いることが課題解決法の一つとして有力視されていました。そのため、世界中のイッテルビウム光格子時計の開発者から、その新たな時計遷移の正確な周波数測定値が求められていました。
産総研では、波長578 nmの時計遷移を用いたイッテルビウム光格子時計を開発し、数か月間にわたって80%を超える稼働率(世界トップ)で運用を行ってきました。この光格子時計を周波数の標準器(NMIJ-Yb1)として、国際原子時(TAI)の校正に3年間以上貢献しています。(2020年11月3日 産総研プレス発表)
この光格子時計のさらなる高精度化のため、波長431 nmの時計遷移の絶対周波数測定に取り組んできました。
なお、本研究はJSPS科研費研究活動スタート支援(2021~2022年度)(21K20359)、基盤研究B(2022~2024年度)(22H01161)、基盤研究C(2022~2024年度)(22K04942)、JST創発的研究支援事業(2022~2028年度)(JPMJFR212S)、JST未来社会創造事業(2018~2027年度)(JPMJMI18A1)、光科学技術研究振興財団(2022~2023年度)による支援を受けています。
イッテルビウムは自然界に7種類の安定同位体があります。産総研で開発されたイッテルビウム光格子時計は、そのうちの一つであるイッテルビウム171原子(171Yb)の波長578 nmの時計遷移を精密分光することで実現しており、周波数の標準器(NMIJ-Yb1)として用いられています。同じイッテルビウム171原子の431 nmの時計遷移を励起するために、独自開発した周波数安定化システムにより周波数を安定化し、線幅を1 Hz程度まで狭窄化した波長431 nmのレーザーを新たに開発しました。このレーザーと時間周波数国家標準であるUTC(NMIJ)と光コムを用いて、その周波数の絶対値を測定できるシステムを構築しました。
時計遷移の探索では、30 µKの極低温までレーザー冷却・捕獲したイッテルビウム171原子に、上述の励起用安定化レーザーを照射し、励起された原子を検出するようにしました。この励起された原子数に相当するシグナルの変化を注意深く観察しながら励起用レーザーの周波数を変化させることで、波長431 nmにある時計遷移の絶対周波数の測定に成功しました。図1はその絶対周波数の正確な決定のために、詳細な分光測定を行った結果を示しています。シグナルが大きくなっているところが、励起用レーザー周波数と原子の遷移周波数が一致しているところです。この遷移の励起状態には、電子の回転運動の向きに応じたいくつかの副構造があり、四つのピークはその副構造に対応します。得られたスペクトル形状を理論曲線でフィットし、四つのピークの平均値として中心周波数を求めることで、波長431 nmの時計遷移の絶対周波数を決定しました。このように、波長431 nmの時計遷移について、基底状態の原子を対象となる励起状態に直接励起したときの遷移周波数の絶対値を精密に測定したのは世界初となります。
図1 共鳴した431 nmの光を照射した時の原子の応答。赤線は黒点の四つのガウス関数によるフィットで、青い線はフィットから求めた四つのピーク周波数の平均値です。回転の矢印と磁石は四つの副構造に対応する電子の回転運動とそれに対応する磁気的性質を表します(図は論文の図を改変したものです)
図2は、この波長431 nmの時計遷移の周波数の絶対測定を5回行った結果を示します。この図から繰り返し測定の再現性を確認できます。そしてこの結果、波長431 nmの時計遷移の絶対周波数を、(695 171 054 858± 8) kHz (相対不確かさ1×10-11)と決定しました。この周波数測定の不確かさは、40年以上前に行われた間接的な測定(参考文献2)での不確かさと比べると1/10 000と大幅に低減できました。
図2 いくつかの周波数測定の分布。緑の線が平均、緑の帯が全体の不確かさを示す。(図は論文の図を改変したものです)
この結果によって、世界中のだれもが、波長431 nmの時計遷移を用いた分光が可能となります。そして、相対不確かさで10-16台(現在の国際原子時の不確かさ)や、それ以下といった、より精密な分光への道を切り開きます。この遷移の精密分光は、光格子時計の高精度化だけでなく、以下のようなものをはじめとするさまざまな基礎物理研究への応用が期待されます。
- 一般に、微細構造定数が変化すると、時計遷移周波数は理論的に計算された比例定数Kを伴う線形変化をします。このKの値は時計遷移によって異なり、新時計遷移は中性原子の時計遷移においては最も大きなKを持つ一方で、既存の時計遷移のKの値は符号も逆で1桁小さいものです。新時計遷移の周波数と、これまでの時計遷移の周波数を比較することで、微細構造定数の時間変化を探ることができます。
- 上記は、微細構造定数への結合を通じた超軽量暗黒物質の探索にもなります。未探索の質量の領域での探索につながると期待されます。(2022年12月8日 産総研プレス発表)
イッテルビウム原子を光格子に捕獲し、新時計遷移の周波数が光格子を形成する光によって変化しない波長である魔法波長を精密に決定します。これによって相対不確かさ10-16程度のより精密な分光を行います。さらに、光格子時計において578 nmと431 nmの二つの時計遷移を同時に運用して環境外乱の影響を見積もり、光格子時計のさらなる精度向上を図り、秒の定義改定への貢献を目指します。
掲載誌:Physical Review A 107, L060801 (2023)
論文タイトル:Observation of the 4f 14 6s 2 1S 0 − 4f 135d 6s2(J = 2) clock transition at 431 nm in 171Yb
著者:Akio Kawasaki, Takumi Kobayashi, Akiko Nishiyama, Takehiko Tanabe, and Masami Yasuda
DOI:10.1103/PhysRevA.107.L060801
1) T. Ishiyama, K. Ono, T. Takano, A. Sunaga, and Y. Takahashi, Physical Review Letters, 130 (15): 153402 (2023).
2) S. Ahmad, I. Machado, and G. Saksena, Spectrochimica Acta Part B: Atomic Spectroscopy, 35 (4): 215 (1980).