- 独自構造の櫛形電極から発生する表面弾性波による高効率な単一電子の移送を実現
- 広い周波数帯域の重ね合わせにより孤立パルスを生成し、周囲の電子への余分な擾乱を抑制
- 単一電子が持つ量子情報の伝送手段として、量子コンピューターへの活用が期待
独自の櫛形電極(チャープIDT)から発生させた表面弾性波の孤立パルスによって単一電子が導波路中を移送される様子
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)物理計測標準研究部門 高田 真太郎 研究員、金子 晋久 首席研究員と国立大学法人 東京工業大学(以下「東工大」という)工学院電気電子系 小寺 哲夫 准教授、太田 俊輔 大学院生(博士後期課程2年)、フランス国立科学研究センター ネール研究所 QuantECAチーム クリストファー ボイヤレ 教授、ボーフム大学 応用固体物理学専攻 アンドレアス ヴィーク 教授は、表面弾性波の孤立パルス(本文中図1説明参照)の発生技術を開発し、その技術を用いて単一電子の高効率な移送を実現しました。
汎用量子コンピューターの実現には、離れた量子ビット間で情報を移送する手段の確立が必要不可欠です。表面弾性波を用いた単一電子の移送技術は、電子が持つ量子情報の移送手段の一つとして研究が進められてきました。一方で、従来の研究では、ある一定の時間幅の表面弾性波バースト(本文中図1説明参照)を用いて電子の移送が行われており、電子の移送に関わらない余分な波に起因する問題が存在しました。本研究で開発した表面弾性波の孤立パルスによる単一電子の移送技術では、余分な表面弾性波による周囲の電子への悪影響を排除することができます。そのため、まわりの量子ビットへの擾乱を抑えた、高効率な量子情報の移送手段として、量子ビットの集積化の実現に貢献します。
なお、この技術の詳細は、2022年09月07日(アメリカ東部標準時)に科学雑誌「Physical Review X」に掲載されます。
実用的な計算タスクを実行可能な汎用量子コンピューターを実現するためには、100万超の量子ビットの集積化が求められます。さまざまな方法が提案されるなか、固体中の電子を用いる方法は、従来の半導体技術との高い親和性から集積性に利点があると考えられ、量子ビットの集積化の実現に向けた研究が行われています。量子ビットの集積回路の実現にあたっては、多数の量子ビットを操るための膨大な制御配線の効率的な配置が課題とされています。その一つの解決策として、量子ビットを制御配線の配置が可能な個数にまとめて一つの集合体として定義し、複数の量子ビット集合体の間で量子情報をやりとりする方法が提案されています。そのためには、離れた量子ビットの間で電子が持つ量子情報を確実に移送する手段の確立が必要となります。
量子情報の移送手段の有力候補の一つに、表面弾性波を用いた単一電子の移送技術があります。この技術において、電子のスピン状態が持つ量子情報を運べることが実証されています。しかし、これまでの研究で用いられてきた表面弾性波バーストは、電子の移送に関わらない多くの波を含み、電子に対して余分な擾乱が加わるなどの問題点がありました。量子ビットの集積化を進め、多くの量子ビットの確実な制御を実現するためには、余分な擾乱を与えない移送技術の開発が求められています。
産総研では、単一電子の高度な制御技術に基づく新たな電流の国家標準の確立や基礎物理法則の整合性に関する高精度な確認実験の実現などを目指しています。これらの過程で、極低温における高周波を用いた単一電子デバイスの精密制御技術などを培ってきました(2018年2月2日 産総研プレス発表)。今回、東工大らと共に表面弾性波の孤立パルスの発生技術を開発し、産総研の精密制御技術と組み合わせることで、量子ビットの集積化と親和性の高い単一電子の移送技術を実現しました。
なお、本研究開発は、独立行政法人日本学術振興会の科研費基盤研究B「単一飛行電子を用いた量子電子光学実験の基盤技術の開発(2020~2023年度、研究代表者:高田真太郎、課題番号:JP20H02559)」による支援を受けています。
表面弾性波は物質の表面を伝播する波の一種であり、圧電効果を示す物質においては電場を伴って伝わります。この表面弾性波に付随する電場の波を用いると、単一の電子を周囲の電子から孤立させ、電場の波に乗せてサーフィンをする要領で静電ポテンシャルによって形成される導波路中を移送させることが可能です。従来の研究では、図1(a)に示したような一定の周期を持つ櫛形電極(Interdigital Transducer:IDT)を圧電体であるGaAs系材料からなる基板上に作製し、櫛の周期と表面弾性波の速さで決まる共鳴周波数に相当する高周波電圧を与えることにより、表面弾性波を発生させます。例えば、単一電子の移送を行う際には、IDTに共鳴周波数の高周波電圧を短時間(40 nsから100 ns程度)印加し、電子の移送に十分な強度を持つ表面弾性波を発生させます。このとき、表面弾性波はそれぞれの櫛で発生した表面弾性波の重ね合わせであるため、多くの波と全体としての有限の立ち上がり、立ち下がり時間を持つ表面弾性波バーストとなります。立ち上がり、立ち下がり時間を含めた表面弾性波バーストの大部分は電子の移送には関わらない波であり、電子が移送される前後で余分な擾乱として周囲の電子の状態を乱しうることがわかっています。また、正確な電子状態の制御を行うためには特定のタイミングで電子を移送する必要があります。さらに、表面弾性波バーストでは、複数ある表面弾性波の波中のどの位置で電子が運ばれているかが不明瞭です。決まった位置で電子を運ぶためには、各量子ビットでGHz帯の高周波電圧を用いた高度な制御が要求されます。そこで本研究では、電子の移送に必要な表面弾性波の孤立パルスを十分な強度で発生させることができる独自の「チャープIDT」を開発しました。チャープとは、周波数が時間的に変化する状態を意味します。図1(b)に示されるように、チャープIDTでは櫛の周期が左から右に向かって変化しています。このチャープIDTに適切に時間変化する高周波電圧を与えることで、左の長周期側から右の短周期側に向かい、表面弾性波を進行に合わせて順番に励起します。これにより、幅広い帯域の表面弾性波を重ね合わせることができます。
図 1 表面弾性波の発生の概念図
(a)従来の櫛形電極 (IDT)を用いた表面弾性波バーストの発生
(b)チャープIDTを用いた高強度な表面弾性波の孤立パルスの発生
本研究では、0.5 GHzから3 GHzの間の帯域の表面弾性波を発生させることができるチャープIDTを作製しました(図2(a))。実験では、0.5 GHzから3 GHzの表面弾性波を同位相で重ね合わせることで不必要な波を打ち消し、図2(b)の赤い実線で示される高強度な表面弾性波の孤立パルスを発生させることに成功しました。発生させた孤立パルスを用いて単一電子の移送実験を行ったところ、99 %を超える高い確率での電子の移送に成功しました。この99 %超という確率は、図1(a)に示される従来と比較しても遜色のない高い確率となっています。また、この孤立パルスを用いると量子ビットごとの高周波制御を必要とせずに電子の移送のタイミングを制御可能であることも示すことができました。
表面弾性波を用いた単一電子の移送技術は、離れた電子スピン量子ビット間での量子情報の移送手段の有力候補と考えられています。本研究で開発した単一電子の移送技術では、余分な表面弾性波の波による電子への擾乱を避けることができるとともに、各量子ビットに対する高周波を用いた電圧制御を用いずに、電子を移送するタイミングを制御することが可能です。このような特徴から、将来の集積量子系の構築に向けた重要な基盤技術や任意波形の量子電流標準としての応用が期待できます。
図2 (a)作製したチャープIDTの電子顕微鏡写真。(b)チャープIDTを用いて発生させた表面弾性波の孤立パルス形状をシミュレーションにより求めたもの(赤の実線、縦軸は右)。これに検出器の特性を加味した波形(灰色の実線、縦軸は左)は、実験で得られた実測波形(黒の実線、縦軸は左)をよく再現している。
本研究は、圧電性を持つGaAs系材料を用いて表面弾性波を発生させ、新たな単一電子の移送技術の開発を行いました。今後は、圧電体薄膜技術を用いることで、現在の電子スピン量子ビット研究で主要なシリコン系材料に、本研究で開発した単一電子の移送技術を適用していくことを目指します。また、チャープIDTの周波数帯域を拡げることで、さらに制御性の高い表面弾性波の孤立パルスの発生技術の開発を目指します。
掲載誌:Physical Review X
論文タイトル:Generation of a single-cycle acoustic pulse – a scalable solution for transport in single-electron circuits
著者:Junliang Wang, Shunsuke Ota, Hermann Edlbauer, Baptiste Jadot, Pierre-André Mortemousque, Aymeric Richard, Yuma Okazaki, Shuji Nakamura, Arne Ludwig, Andreas D. Wieck, Matias Urdampilleta, Tristan Meunier, Tetsuo Kodera, Nobu-Hisa Kaneko, Shintaro Takada, and Christopher Bäuerle