国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)スピントロニクス研究センター【研究センター長 湯浅 新治】電圧スピントロニクスチーム 塩田 陽一 研究員は、電圧を用いた磁気メモリー書込みの安定動作を実証し、実用化に必要な書込みエラー率を実現する道筋を明らかにした。
非常に薄い金属磁石層(記録層)をもつ磁気トンネル接合素子(MTJ素子)にナノ秒程度の極短い時間電圧パルスをかけると、磁化反転を誘起できる。これを利用すると磁気メモリーへの情報の書込みができる。今回、この電圧書込み方式の安定動作を実証し、また書込みエラー率の評価法を開発して、エラー率を4×10-3と評価した。さらに、実験結果を再現できる計算機シミュレーションを用いて、磁気摩擦定数の低減と熱じょう乱耐性Δの向上、あるいは書込み後のベリファイの実行により、メモリー用途に求められる10-10~10-15というエラー率を実現できる可能性があることを示した(下図(b))。電圧書込み方式は電流が不要なので消費電力が非常に小さくなる。今回の成果により、超低消費電力の電圧書込み型不揮発性メモリー「電圧トルクMRAM」の研究開発の加速が期待される。
この成果の詳細は、2015年12月10日に日本の科学誌Applied Physics Expressのオンライン速報版に掲載される。
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(a) 今回用いた磁気トンネル接合(MTJ)素子の模式図と (b) 書込みエラー率の熱じょう乱耐性依存性 |
(a) 極短い時間電圧パルスをかけると、記録層の磁化(赤矢印)が反転する。(b) 磁気摩擦定数0.01、熱じょう乱耐性50以上で書込みエラー率10-15以下になると予想される。 |
IT機器の省電力化、いわゆるグリーンITの実現は、環境に優しいエコ社会を実現するための最重要課題の一つとなっている。その1つのアプローチに不揮発性エレクトロニクスデバイスの開発がある。スピントロニクス分野では、磁石の磁化が持つ不揮発性記録の機能を利用した、待機電力ゼロの不揮発性メモリー「MRAM」の開発が行われている。現在、世界規模で製品開発が進められている電流書込み方式のMRAM(STT-MRAM)は低消費電力の不揮発性メモリーとして期待されているが、それでも書込み電流による電力消費があるため、消費電力の低減には限界がある。
一方、ナノ秒程度の電圧パルスによる磁化反転は、1)原理的に電流が不要なので超低消費電力、2)ナノ秒程度の高速動作、3)高い耐久性、4)室温で動作可能、などの特徴がある。電圧書込み方式の磁気メモリー「電圧トルクMRAM」はまだ基礎研究の段階にあるが、将来的にSTT-MRAMよりもさらに低消費電力の不揮発性メモリーになると期待されている。
産総研はこれまでに国立大学法人 大阪大学大学院 基礎工学研究科 鈴木 義茂 教授らと協力して、厚さが数原子層程度の金属磁石薄膜に電圧をかけて、磁化の向きやすい方向(磁気異方性)を制御する技術の開発に取り組んできた(2012年5月1日産総研プレス発表など)。この技術による電圧トルクMRAMの実用化には、書込みエラー率を10-10~10-15程度以下にする必要がある。しかし、これまでは電圧書込み方式の書込みエラー率を評価した例が無く、メモリーとしての安定動作が可能かどうかも分かっていなかった。
今回産総研では、ギガビット級の大容量メモリーに使用できる垂直磁化型MTJ素子について、ナノ秒程度の電圧パルスによる書込みのエラー率の評価に取り組んだ。また、10-10~10-15以下の書込みエラー率の実現に向けて、実証実験と計算機シミュレーションの両面から検討した。
なお、本研究開発は、内閣府「革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)」の研究開発プログラム「無充電で長期間使用できる究極のエコIT機器の実現」(プログラム・マネージャー:佐橋 政司)の一環として行い、独立行政法人 日本学術振興会 科学研究費補助金 研究活動スタート支援(課題番号:26886017)の支援を一部受けたものである。
図1に電圧書込み方式の模式図を示す。電圧をかけていないとき、磁化は磁気エネルギーの低い方向に向き、上向き(図1左:メモリーの「0」状態に対応)または下向き(図1右:メモリーの「1」状態に対応)で安定している。ここに超高速の電圧パルスをかけると、瞬間的に磁気異方性が変化して記録層の磁化が回転し始める(図1中央)。ちょうど磁化が初期状態と反対向きになった時に電圧を切ると、回転が止まり、磁化が反対向きに固定され、メモリーの書込みが行われる。
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図1 電圧パルスによる磁化反転の模式図
電圧パルスをかけたとき磁化が回転し、反転したところで電圧をOFFにすると磁化反転が起こる。 |
今回用いた素子は直径120ナノメートルの円柱状で、記録層として1.8ナノメートルの鉄ボロン合金からなる磁石層を用い、絶縁層の酸化マグネシウム層を介して電圧をかけた。電圧をかけた後の素子の電気抵抗の変化から磁化反転の成功・失敗を判定し、10万回の書込みを行って書込みエラー率を評価した。図2に、書込みエラー率と電圧印加時間(電圧パルスをかけた時間)との関係を示す。星印は書込みエラー率が最小となる電圧印加時間を示している。今回用いた磁化反転技術は磁化の回転運動を利用するため、ちょうど磁化が半回転する時間だけ電圧をかけた時に、効率よく磁化が反転するが、星印がその時間に対応する。実験では4×10-3という比較的低い書込みエラー率が実現された。なお、この実験結果は、磁気摩擦定数を0.1と仮定した計算機シミュレーションの結果と良く一致する。
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図2 書込みエラー率の電圧印加時間依存性 |
10-3台の書込みエラー率でも、書込み後のベリファイを数回実行すれば、メモリーの実用化に必要な10-10~10-15程度の書込みエラー率が実現できるため、メモリーとしての安定動作が可能となる。しかし、ベリファイにより書込み速度が低下するので、メモリーを超高速動作させるにはベリファイを用いずに10-10~10-15程度の書込みエラー率を実現する必要がある。これが可能かどうかを調べるために行った計算機シミュレーションの結果を図3に示す。これは、熱じょう乱耐性Δに対して書込みエラー率を計算した結果である。今回の実証実験では4×10-3の書込みエラー率が得られたが、これはΔ = 26、磁気摩擦定数 = 0.1のシミュレーション結果と良く一致する。さらなる磁気摩擦係数の低減(0.01以下)と熱じょう乱耐性Δの向上(50以上)により、10-15以下の書込みエラー率の達成が可能と考えられる。なお、このような磁気摩擦係数と熱じょう乱耐性を持つMTJ素子は、垂直磁化がより安定な記録層材料を用いて、素子サイズをさらに微細化すれば、十分実現可能である。このように、実用化に必要な書込みエラー率を実現するための指針が得られたため、超消費電力の電圧トルクMRAMの研究開発が大きく加速すると考えられる。
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図3 書込みエラー率の熱じょう乱耐性Δ依存性 |
今後は、今回得られた指針をもとに、低い磁気摩擦定数と高い熱じょう乱耐性Δの垂直磁化MTJ素子の開発と電圧書込みの高精度化を進め、ベリファイを用いずに実用レベルの書込みエラー率実現を目指す。