独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)バイオニクス研究センター【センター長 軽部 征夫】は、光照射によって物性が変化する新規ポリマーを用いて、基材表面に対する細胞の接着性を、光照射により任意に制御できる技術を開発しました。
21世紀の最先端医療では、ヒトや動物の細胞の利用が益々盛んになると言われています。細胞を医療に用いる場合、目的に応じて特定の細胞を分離・精製しなければなりませんが、現在はフローサイトメトリーや磁気細胞分離法などが広く用いられています。ところが、これらの分離操作では溶液中に細胞を完全に分散させなくてはならず、動物細胞の大部分を占める足場依存性細胞に対して大きなダメージを与えることが問題視されてきました。
そこで産総研では、足場依存性細胞を培養している状態(in situ)で選抜・分離できればこの問題を解決できると考え、光照射によって細胞の接着性が変化する基材(以下「光応答性細胞培養基材」という)を開発しました。この光応答性細胞培養基材上で培養した細胞に特定波長の光を照射しますと照射部位の細胞接着性を増大させることができますし、逆に別の波長の光で照射部位の細胞接着性を減少させることもできます。そのような光照射あるいは接着・脱着操作による細胞へのダメージは、ほとんどありません。
この技術を用いますと、顕微鏡などで観察しながら任意の細胞のみを剥離回収したり、逆にそれだけを残して他の細胞を除去したりできます。これまで細胞分離技術として様々な方法が実用化されていますが、観察下の特定の細胞あるいは細胞群を任意に選抜する技術は存在しません。この技術は、細胞操作分野に全く新しい実験ツールを提供すると期待されます。
21世紀はバイオテクノロジーの時代と言われています。中でも細胞を利用した医療技術は、機能を失った臓器・組織の修復の他、癌や自己免疫性疾患の治療など、これまで治癒が困難とされた疾病や傷害への応用が大いに期待されています。動物の体細胞は様々に分化していますが、その大半は足場依存性であり、何らかの基材上で培養し、増殖させないと、本来の機能が発現しません。従来方法では分散させるために基材から剥離させる際、細胞表面を傷つけ、本来の機能を失うこともあります。そのため、足場依存性細胞は基材上で培養したそのままの状態(in situ)で取り扱う技術が求められていました。
このような背景に基づき、産総研では基材表面上で任意の個々の細胞あるいは細胞群を操作する技術-セルマニピュレーション-の必要性を提唱して参りました。材料表面上で任意のパターンに従って細胞を培養する技術は古くから知られていますが(例えば、九州大学医学研究院 松田 武久 教授)、それらはリソグラフィーなどを用いて予め材料表面上に細胞が接着しやすい部位を作製しておく方法であり、培養後のパターン変更ができません。また、基材上で培養した細胞を、ダメージを与えることなく回収する技術は、東京女子医科大学の 岡野 光夫 教授により開発されていますが、基材全体の温度変化によって細胞を回収するため、個々の細胞や任意の細胞群を分離回収することはできません。
そこで産総研では、制御手段としての光が有する優位性、すなち、遠隔性、即時性、局所性に着目し、光によって細胞の接着性が変化する高分子材料を用いて細胞培養基材を作製すれば、個々の細胞あるいは細胞群の接着・脱着を制御できるのではないか、と考えました。このアイデアに基づき、独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構【理事長 牧野 力】の平成14年度産業技術研究助成事業に応募し、採択されこの研究を開始しました。
・光応答性細胞培養基材
産総研ではこの目的に適した材料として、温度応答性ポリマーとして知られるポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)と特定の波長の光によって構造が変化する色素を組み合わせた新規ポリマーを考案しました。このフォトポリマーは、細胞の培養温度である37 ℃付近で、光照射によりポリマーの構造を変化させます(図1参照)。ポリマーに含まれる色素は細胞膜に作用し、細胞表面に接着し「捕まえる」役割を果たします。光照射により色素と細胞膜との親和性が変化しますので、この色素を含むポリマーで細胞培養基材表面を覆えば、基材に対する細胞の接着性を光照射によって劇的に変化させることできます。
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図1 光応答性ポリマーによる細胞の接着性制御の模式図
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このようなアイデアの元、様々な種類のポリマーを合成し、また基材表面の作製技術についても詳細に検討したところ、図2に示す様な細胞のパターンニングが可能となりました。
なお、光を当てていない部分の細胞の脱着(回収)は、冷却により一括して可能ですし、接着性が低下し、細胞が脱着した部分に光を照射することにより、接着性を再び増大させることもできます。さらに、別の波長の光を照射することにより、細胞接着性を低下させることもできます。すなわち、基材上の任意の位置の細胞接着性を必要に応じて(オンデマンド)制御することが可能となりました。
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図2 光による細胞選抜の実例
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細胞を播種、培養した後、S字のパターンで特定波長の光を照射し、洗浄を行うとパターン通りに細胞が残ります。緑色の点が、生きている個々の細胞です。 |
・二次元培養細胞マニピュレーション装置への応用
上述の様な光応答性細胞培養基材で培養した細胞に対しては、光を用いて色々な操作を施すことができます。産総研では、図3に示す様な、汎用型の二次元培養細胞マニピュレーション装置を試作したいと考えています。
この装置を用いますと、例えば図4に示しました様に、顕微鏡で細胞の形状を取り込み、手動あるいは画像処理プログラムによってある特定の形の細胞を判別し、それらの細胞が接着している箇所に同時に光を照射することにより、光を当てた細胞のみを除去することができますし、逆にそれらだけを残すことも可能です。
細胞の選抜、分離法として、フローサイトメトリーや磁気細胞分離法など、様々な技術が実用化されていますが、これらの技術の多くは、目的とした細胞と特異的に結合する抗体を用いるため、抗体が知られていない細胞については用いることができません。しかしながら、初代培養細胞や癌細胞など、形状で明確に識別できる細胞も多数知られており、形状で細胞を選抜・分離できる技術が望まれてきました。今回発表の技術を用いることにより、形状による細胞の選抜、分離装置を世界に先駆けて製品化できると期待しています。
また2種類の波長の光を順次照射することにより基材への細胞の接着性を繰り返し変化させることができますので、例えば図5に示す様な、細胞を播種、培養した後での細胞の複雑なパターンニングも可能です。
形状による細胞の選抜、分離装置につきましては、既に学会発表等において製品化の要望を多数頂いております。このような要望に応えるため、今後、上述の二次元培養細胞マニピュレーション装置を試作し、アライアンス先の企業を探して、数年以内の製品化を目指したいと考えております。