- 電子とその反粒子である陽電子でできた「原子」であるポジトロニウムは、2個の素粒子だけでできているという単純さから既存の理論による計算と実験データを緻密に比べて、理論を超えた未知の物理現象の探索実験ができます。そのためにはポジトロニウムを絶対零度近くまで冷やす必要がありますが、冷却が難しく、絶対零度にほど遠い100ケルビン程度までしか達成できていませんでした。
- 原子を絶対零度近くまで冷やす手法として、レーザー冷却と呼ばれる方法がありますが、ポジトロニウムは1000万分の1秒程度で「対消滅」という現象を起こしてなくなってしまうこともあり、これまでの方式が使えません。今回、独自の技術によって波長が急速に変化するパルス列のレーザー光を開発し、対消滅が起きるより早く1ケルビンまで急冷することに世界で初めて成功しました。
- 今後、光によるエネルギー準位や質量の精密な測定が可能となり、物理学の基礎理論の検証や反物質の性質の理解など、物理学が抱える謎を解くための研究分野が大きく進展します。
波長が高速に変化するレーザー光の列によって照射されたポジトロニウムが、真空中で瞬時に冷却される概念図。
東京大学大学院工学系研究科の吉岡孝高准教授、周健治助教と、同大学大学院理学系研究科の石田明助教らによる研究グループは、高エネルギー加速器研究機構(KEK)物質構造科学研究所、産業技術総合研究所と共同で、レーザー光によるポジトロニウム(注1)の急速な冷却を世界で初めて実現しました。
独自に開発したレーザー光源を使用することで、理論提案から30年の間実現が待たれていたポジトロニウムのレーザー冷却(注2)に成功し、わずか1000万分の1秒の間に、従来よりも桁違いに低温の気体にできることを証明しました。物理学は、宇宙に反粒子(注3)がほとんど残っていないことや、暗黒物質の起源など、多くの謎を抱えています。これを解決するため、基礎理論の綻びがどこにあるのかを検証する研究が世界中で進められています。本研究成果は、電子とその反粒子だけでできた最も基本的な原子を使って、基礎理論が現実をどこまで正確に表現できているのか、さらには反粒子の質量や重力の影響を精密に調べる研究を可能とするもので、今後大きな学際的研究分野の形成が期待されます。
〈研究の背景〉
現代の物理学は、暗黒物質の正体や宇宙に反物質がほとんど残っていない理由など、いくつもの重大な謎を抱えています。それらの謎を解く手がかりを得るため、既存の理論が網羅できていない現象の探索が世界中で進められています。その対象は宇宙で繰り広げられる現象だけでなく、地球上でも、大型加速器によって粒子同士を衝突させ宇宙誕生直後を模したような実験が行われています。このような実験のほかに、絶対零度近くまで低温にした原子や分子を、真空中に用意し、光を使って調べることで、未知の現象や粒子の存在によって生じうるわずかな性質の変化を敏感にとらえる実験が行われています。このような研究は精密分光学と呼ばれています。
ポジトロニウムは、1個の電子と1個の陽電子がお互いを引き付けあってできた「原子」です。水素をはじめとする他のほとんど全ての原子が持つ原子核は多くの素粒子が集まってできています。一方で、ポジトロニウムは2個の素粒子だけでできた原子であり、その単純さから、通常の原子と異なり既存理論による計算と実験データを緻密に比べることが可能です。このため、ポジトロニウムを絶対零度近くまで冷やすことができれば、精密分光学の技術を通じて既存の物理理論の範囲を超えた現象の有無を調べることができます。さらに、陽電子は電子の反粒子であることから、未だ多くの謎に包まれている反粒子の性質を明らかにすることが可能になります。つまり、ポジトロニウムを低温にすることが研究進展のための重要な鍵となっていました。
真空中にポジトロニウムを用意する方法の一つは、人工的に生成した陽電子を固体の物質に照射することです。本研究ではシリカエアロゲルを使用しました。ポジトロニウムを作るための物質を冷却しておくと、真空中に放出されるポジトロニウムの気体の温度も下がりますが、100ケルビン程度が限界であることが知られており、絶対零度からは程遠いものでした。その一方で原子にレーザー光を吸収させ、その後原子が光を放つという過程を繰り返すと、気体を構成する原子を遅くする、つまり気体を冷やすことができます。これをレーザー冷却といい、ポジトロニウムにもこの技術を適用できれば絶対零度近くまで冷却できるものと期待されていました。
互いに反粒子である電子と陽電子は、接触するとある確率でガンマ線になって消滅します。これは対消滅と呼ばれ、ポジトロニウムの場合、対消滅によって約100ナノ秒(1000万分の1秒)の間に数が半減します。したがってその冷却は、このような短い時間の間に完了する必要があります。また、ポジトロニウムは非常に軽いため、光を吸収したり放出したりする際の速度の変化が大きく、通常の原子の冷却に使われている方法のままでは、ドップラー効果によってレーザー冷却を続けることができなくなります。ポジトロニウムのレーザー冷却の可能性は約30年前に理論的に議論されましたが、これらの問題点を解決できるレーザー光を実現することができていませんでした。
〈研究の内容〉
吉岡准教授らのグループでは、従来の常識を超える速さでレーザー光の波長を変化させる方法を開発してきました。このレーザーは約2億分の1秒ごとに強い紫外線の光を放ち、そのフラッシュごとにポジトロニウムの減速にあわせて波長が変化します。このような独自開発の光を使う新方式のレーザー冷却を行うことで、ポジトロニウムの多くが対消滅する前に急冷することができるはずと考えました。
実験は高エネルギー加速器研究機構(KEK)、産業技術総合研究所(産総研)と共同で実施しました。レーザー冷却の実証実験(図1)はKEK物質構造科学研究所 低速陽電子実験施設で行われました。まず、主に東京大学大学院理学系研究科・素粒子物理国際研究センターが真空装置およびポジトロニウムの生成量と寿命の計測装置を開発しました。KEKの研究者は高強度な低速陽電子ビームバンチを供給し、ポジトロニウムをつくる材料に陽電子を照射して瞬間的にポジトロニウムを発生させました。このとき、陽電子の輸送に欠かせない磁場の空間分布を周到に設計することで、レーザーを照射する空間における磁場を非常に小さくすることに成功しました。これはポジトロニウムの寿命を短縮しないようにするために重要でした。また、産総研の研究者は、陽電子ビームの収束装置と、高い効率でポジトロニウムをつくるための材料を開発しました。これらはレーザー冷却を明確に証明するのに十分な信号量を得るために重要な役割を果たしました。
図1:真空容器内の実験配置の概要
ポジトロニウムの速度を測定した実験結果(図2)は、時々刻々と波長が変化する光によって高速のポジトロニウムが減少し、これまでに観測されたことのない非常に低速なものへと効率よく冷却されたことを証明しています。さらに、シミュレーションによると、この特別なレーザー光によって、本実験結果には観測が難しいほどに低速な、ほとんど静止した成分があることも示されており、1ケルビンという冷却限界に迫る従来よりも桁違いの低温を実現することができました。
図2:ポジトロニウムのレーザー冷却の結果
図の横軸中央はポジトロニウムが静止していることを表し、中央から離れるほど速度が大きくなる。レーザー冷却によって高速なポジトロニウムが非常に低速なものに冷却されたことを示している。
〈今後の展望〉
本研究では、3次元空間の速度の分布のうち、1次元分のレーザー冷却を実証しました。今後これを3次元のレーザー冷却に拡張することで、精密分光学に沿った研究を推進できるようになります。具体的には、素粒子物理学の標準理論の重要な一角をなす量子電磁力学(注4)の精密な検証、反粒子の質量の正確な測定、反物質にはたらく重力の効果の測定を実現できます。また、ポジトロニウムの密度を高めることで、反物質を含む集団のボース・アインシュタイン凝縮(注5)の観測や宇宙誕生後の反物質の振る舞いの理解につながる可能性があります。本研究は、反粒子を含む「原子」を用いた精密物理学という、工学、光科学、素粒子物理学を網羅する学際分野の発展のための大きな第一歩です。
「プレスリリース:世界最低温の励起子に生じたボース・アインシュタイン凝縮体を可視化することに成功」(2022/09/16)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/8081/
東京大学
大学院工学系研究科
吉岡 孝高 准教授
周 健治 助教
田島 陽平 博士課程:研究当時
魚住 亮介 博士課程
宮本 尚樹 修士課程
白石 蒼馬 修士課程
小林 拓豊 修士課程:研究当時
大学院理学系研究科
浅井 祥仁 教授:研究当時
石田 明 助教
山田 恭平 博士課程:研究当時
Randall Wayne Gladen 特任研究員:研究当時
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所
和田 健 准教授
望月 出海 助教
兵頭 俊夫 協力研究員(東京大学名誉教授)
産業技術総合研究所
伊藤 賢志 総括研究主幹
大島 永康 研究グループ長
オローク ブライアン 主任研究員
満汐 孝治 主任研究員
雑誌名:Nature
題 名:Cooling positronium to ultra-low velocities with a chirped laser pulse train
著者名:K. Shu, Y. Tajima, R. Uozumi, N. Miyamoto, S. Shiraishi, T. Kobayashi, A. Ishida*, K. Yamada, R. W. Gladen, T. Namba, S. Asai, K. Wada, I. Mochizuki, T. Hyodo, K. Ito, K. Michishio, B. E. O'Rourke, N. Oshima, K. Yoshioka*
DOI:10.1038/s41586-024-07912-0
URL:https://www.nature.com/articles/s41586-024-07912-0
本研究は、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)JPMXS0118067246、科学技術振興機構創発的研究支援事業(課題番号:JPMJFR202L)、日本学術振興会科研費(課題番号:JP16H04526、JP17H02820、JP17H06205、JP17J03691、JP18H03855、JP19H01923、JP21K13862、JP22KJ0637、JP24H00217)、住友財団基礎科学研究助成、松尾学術振興財団、三豊科学技術振興協会、光科学技術研究振興財団、三菱財団の助成を受けたものです。実験はフォトンファクトリー共同利用実験課題2020G101、2022G087、2023G660によって、KEK物質構造科学研究所 低速陽電子実験施設のSPF-B1ステーションにおいて実施しました。