- 光の散乱で物質の分子を調べるラマン分光法を応用し、神経細胞や神経細胞集団の活動を評価する手法
- 神経活動から生じるスペクトルデータを正確に計測し、機械学習で神経の状態を評価する技術
- 新薬開発や再生医療における細胞の品質管理、バイオものづくりでの微生物評価などへ応用の可能性
今回開発した「ラマン分光法を応用した神経細胞の活動評価システム」の概要図
※原論文の図を引用・改変したものを使用しています。(一部イラストはBiorender.comを用いて作成)
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)細胞分子工学研究部門 ステムセルバイオテクノロジー研究グループ 赤木祐香 研究員、木田泰之 研究グループ付、則元彩 テクニカルスタッフは、神経細胞の活動を評価できる新しい手法を開発しました。
従来、神経細胞の活動を評価する技術は指標となる蛍光プローブが必要でした。そこで、本成果ではラマン分光法という物質の中の分子を調べる光技術と機械学習を応用し、神経細胞の活動を迅速かつ正確に評価するシステムを開発しました。このシステムは単一の神経細胞だけでなく、神経細胞が集団で活動する神経核も計測できます。プローブ不要の非侵襲的な神経細胞評価システムは、再生医療や創薬における移植用細胞の品質管理や新薬の効果と毒性評価に貢献します。さらに、この技術は神経疾患の治療法の開発や神経科学の発展に役立ちます。
なお、この技術の詳細は、2024年7月3日に「Molecules」に掲載されました。
神経細胞は、脳や脊髄などの神経系を構成し、外部からの物理的・化学的シグナルを電気信号に変換して筋肉などさまざまな細胞や組織に伝達する役割を持っています。これまでに、神経の機能解析や病態解明を目的に、神経活動を正確に評価する技術の開発が進められてきました。たとえば、神経細胞の活動に同調するカルシウムイオンや特定物質の変動を蛍光分子で標識して計測する手法、細胞に細いガラス電極を挿入して神経の電気活動を計測する方法などがあります。しかし、これらは細胞や組織にダメージを与える可能性がありました。また、計測に手間や時間がかかる、コストが高いなどの課題もありました。このような背景から、蛍光プローブや電極を使わずに、神経細胞の活動による分子変化を簡便かつ正確に計測できる技術が求められていました。
産総研は、バイオ技術の産業化に向け、再生医療や創薬支援のための幹細胞操作技術や品質管理・評価技術に関する研究開発を推進してきました。中でも、細胞へのダメージや計測時間の長さ、コストの高さなどといった従来の評価技術の課題解決に注力してきました。私たちはラマン分光法に着目し、産総研・阪大 先端フォトニクス・バイオセンシングオープンイノベーションラボラトリと協働して、新しい細胞の評価技術を開発してきました。ラマン分光法とは、対象物にレーザー光を照射したときに散乱する光(ラマン散乱光)から対象物の分子情報を得る手法です。細胞から得られたラマンスペクトルは、核酸やたんぱく質、脂質など細胞内のさまざまな分子の種類や構造、量などの情報を網羅的に含んでいます。私たちは高速でレーザー光を走査し、高感度でラマンスペクトルを取得する技術を開発しました。このシステムでは、レーザー光が対象区間の円内をらせん状にくまなく走査できます。レーザー照射時間を短縮することで細胞への熱ダメージを低減し、効率的に細胞全体からのスペクトルを取得することが可能となりました。私たちはこのシステムをペイント式ラマン分光システム(Paint Raman Express Spectroscopy System(PRESS))と名付け、さまざまな細胞を用いた実証実験を行ってきました(参考文献)。
今回、この技術をさらに発展させ、これまで困難だったリアルタイムでの神経細胞の活動を簡単に評価する新しい技術を開発しました。
なお、本研究の一部は、独立行政法人 日本学術振興会 科学研究費補助金(19K23613)の支援を受けて実施しました。
近年、ラマン分光法は免疫細胞や幹細胞など、細胞種類の判別や活性化などを評価する技術として応用されてきました。しかし、神経細胞の一時的で微小な活動変化をラマン分光法で検出する挑戦的な研究はありませんでした。神経細胞を非破壊かつプローブによる侵襲なく評価することができれば、再生医療における神経細胞の品質管理、神経疾患を対象とした新薬開発や毒性評価の効率化、神経科学研究に貢献すると考えられます(図1)。そこで私たちは、研究グループのオリジナル技術であるヒト人工多能性幹(iPS)細胞から神経細胞を作製し(産総研のヒト由来試料を用いた実験に関する倫理委員会のガイドラインに従って実施)、PRESSにより神経細胞を計測する手法を検討しました。一方、脳や脊髄、末梢系では神経細胞は集団で活動する神経核を形成します。この神経細胞の集団の活動に対しても簡便な計測を可能にする技術が必要でした。そこで私たちはPRESSにおけるレーザー光が走査できる領域を大幅に拡大し、より広い領域から高感度なスペクトルを計測する方法を検討しました。これにより、特定の領域内に含まれる複数細胞から統合的なスペクトルをわずか数秒間で計測することに成功しました。
図1 神経細胞の活動評価法の比較:従来の蛍光プローブや電極を用いた方法と、今回開発したラマン分光法を用いた方法
※原論文の図を引用・改変したものを使用しています。(一部イラストはBiorender.comを用いて作成)
実験では、はじめにPRESSが神経細胞の活動を評価できるかを検証するため、単一の神経細胞を対象にした試験を行いました(図2上段)。脳を構成する細胞の一つであるグルタミン酸作動性神経細胞をヒトiPS細胞から作製し、計測に用いました。この神経はグルタミン酸に反応すると、細胞内のカルシウムイオンの濃度が変化し、電気活動が変化します。そこで、グルタミン酸溶液に反応した神経細胞からラマンスペクトルを取得しました。対照液(緩衝液)またはグルタミン酸溶液に反応したそれぞれ30個の神経細胞から得たスペクトル情報を、統計解析法の一つである主成分分析により次元削減して、機械学習法のサポートベクターマシンで計算しました(図2上段)。その結果、対照液に反応した神経細胞(対照細胞)とグルタミン酸で刺激した神経細胞を分類する精度は98%を示しました。これにより、PRESSはグルタミン酸溶液による神経細胞の活動の変化を高精度に検出することが確認できました。
次に、神経細胞が集団で活動する神経核の計測が可能かを検証しました(図2下段)。試験にはヒトiPS細胞から作製した自律神経細胞を用いました。自律神経細胞は興奮やリラックスといった体の活動を制御する神経系です。体内では神経細胞が集団で活動する神経核の状態で存在し、ヒトiPS細胞から作製した自律神経細胞も数十個の神経細胞が凝集した形態を示します。私たちはこの神経凝集体の機能を評価するため、PRESSの測定手法を改良し、複数の細胞からなる広い領域のラマンスペクトルを数秒間で取得できる手法を確立しました。具体的には、測定面積を最大49倍に拡大し、レーザー光の走査速度や露光時間を調整しました。また、シグナル対ノイズ比の高いスペクトルを計測するための条件を検討しました。自律神経細胞を活性化するニコチン溶液または対照液に反応した神経凝集体から、それぞれ30領域ずつラマンスペクトルを取得しました。得られたスペクトルデータを機械学習で解析したところ、対照液に反応した神経凝集体(対照群)とニコチン溶液に反応した神経凝集体を98%の精度で識別することができました(図2下段)。さらに、ニコチン刺激により神経活動に寄与する分子情報として、特定のラマンマーカーを検出することができました。具体的には、核酸などを示す波数740 cm-1や1121 cm-1、核酸やたんぱく質のリン酸に寄与する994 cm-1、脂質に寄与する2848 cm-1のピークにおいて、ニコチン反応による強度の違いを示しました。
図2 ラマン分光法を用いた単一の神経細胞または神経細胞の凝集体の活動評価
上段)単一の神経細胞を測定したときの明視野画像と、その細胞から得たスペクトルデータを示しています。これらのデータは、統計解析法の一つである主成分分析で高次元データを3次元に変換した図です。プロットには対照細胞を黒丸、グルタミン酸に反応した神経細胞を赤バツ印で示しています(1プロットが1細胞を示す)。明視野画像内の緑線内をレーザー光が高速に走査し、その領域内の積算ラマンスペクトルを取得しています。(スケールバー:10 mm)
下段)神経細胞の凝集体(複数の神経細胞)を測定したときの明視野画像と、その細胞から得たスペクトルデータを示しています。これらのデータも主成分分析を使って高次元データを3次元グラフに変換しています。プロットには対照群を黒丸、ニコチンに反応した神経細胞群を緑バツ印で示しています(1プロットが1凝集体を示す)。(スケールバー: 50 mm)
※原論文の図(Figure1, Figure4)を引用・改変したものを使用しています。
さらに、PRESSはニコチンの濃度に依存した神経細胞の活動を評価することができました(図3)。これは、ニコチンの濃度によって反応する神経細胞の割合や細胞内での変化が異なることを捉えた結果と考えられます。
図3 ニコチン濃度依存的な神経凝集体の活動変化の解析結果
0.05 µM~500 µMのニコチンに応答した神経細胞の凝集体からラマンスペクトルを取得し、部分最小二乗判別分析(PLS-DA)と呼ばれる機械学習法を用いて解析しました。
左)PLS-DA解析の結果を2次元上で示し、各濃度のデータをカーネル密度推定図で示しています。異なるニコチン濃度に対応する神経凝集体の分布を示しています。
右)ニコチン濃度0 µMを基準にしたPLS-DAのスコア値で比較した結果を示しています。各濃度での神経活動の変化量を示しており、特に高濃度のニコチンで顕著な変化を検出しました。(* P<0.05 vs 0 µM, n=24, Williams’s post-hoc test)
※原論文の図(Figure7)を引用・改変したものを使用しています。
本研究で私たちは、単一神経に限らず、神経集団の活動を迅速に高精度で評価することに成功しました。この技術は、細胞培養用培地など生育環境を維持したまま測定でき、蛍光プローブなどの計測標識も不要です。そのため、今後の発展が期待される細胞治療において細胞製品の品質管理に役立ち、製造コストの削減や治療の安全性と効果の向上に貢献します。創薬分野においては、新薬開発や毒性評価の効率化に貢献します。
この技術は神経細胞に限らず、さまざまな培養細胞や微生物の集団に対しても応用できます。そのため、培養細胞を用いた機能性食品の開発、微生物の代謝活動のリアルタイム評価や有用物資の生産性評価といった、バイオものづくりなど他のバイオ産業への広範な応用が期待され、多くの課題を解決できる可能性があります。さらに、細胞評価など生体外の評価技術の発展は、社会的潮流である動物実験の削減に寄与し、効率的かつ倫理的で成熟した研究環境の構築にも貢献します。
今後は、計測と解析の自動化によるスピーディーで低コスト、かつ高精度な細胞活動の評価を目指して、本技術の改良を進めます。具体的には、ロボティクスや画像解析の技術を応用し、多検体の自動計測を可能にします。また、最先端の光学技術を取り入れ、ラマン計測の感度や時間分解能の向上を図ります。将来的には、創薬分野における新薬開発や毒性評価、生殖医療における非破壊な胚評価への本技術の活用を検討していきます。
掲載誌:Molecules
論文タイトル:Label-Free Assessment of Neuronal Activity Using Raman Micro-Spectroscopy
著者:Yuka Akagi, Aya Norimoto, Teruhisa Kawamura, Yasuyuki S. Kida
DOI:10.3390/molecules29133174
Yuka Akagi, Nobuhito Mori, Teruhisa Kawamura, Yuzo Takayama & Yasuyuki S. Kida, ”Non-invasive cell classification using the Paint Raman Express Spectroscopy System (PRESS)”, Scientific Reports. 11, 8818, 2021
DOI:10.1038/s41598-021-88056-3