- 橋杭岩周辺に散らばる巨礫は過去の巨大津波の証拠
- 歴史上最大の1707年宝永地震による津波を超える規模の津波が存在したと推定
- 南海トラフ沿いの巨大地震津波の定量的な解析に貢献
和歌山県串本町橋杭岩周辺の巨礫(「震源域」は地震調査研究推進本部(2013)を利用)
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)活断層・火山研究部門 海溝型地震履歴研究グループ 行谷 佑一 主任研究員および地質調査総合センター 連携推進室 国内連携グループ 宍倉 正展 グループ長と、法政大学 文学部 前杢 英明 教授、株式会社環境地質 越後 智雄 東京支店長による研究チームは、和歌山県串本町にある名勝橋杭岩の周辺の地質痕跡から、南海トラフ沿いで過去最大とも呼ばれる1707年宝永地震の津波よりも大きな津波がこの地域に来襲したことを解明しました。
海岸に一直線に並んだ巨岩列で知られる橋杭岩はマグマの貫入によってできた岩石です。橋杭岩の周辺には、多数の巨礫が散らばっており巨礫も同じマグマ由来の岩石からなるので、橋杭岩から分離して周囲に移動したものと考えられます。その移動の原因について過去に大きな津波や高潮などで巨礫が橋杭岩から運ばれたためと推定しました。そこで、これらの巨礫の位置や大きさを測定し、どのくらいの規模の津波によって巨礫が動くか計算しました。この結果、南海トラフ沿いで歴史上最大とされる1707年宝永地震の津波の規模でも動かない巨礫が存在することがわかりました。これは、1707年津波を超える大きな津波がかつてこの地を来襲し、巨礫を動かしたことを意味しています。全ての巨礫が動くためには、1707年地震に加えて沖合のプレート境界の分岐断層が大きくすべることや、あるいは1707年地震の断層面上が2倍を超えて大きくすべることなどが考えられます。なお、研究の詳細は2022年9月6日にTectonophysics誌に掲載されました。
津波に対する防災計画を考える場合、過去にその場所にどのくらい大きな津波が来襲したのかを知ることが基本的かつ重要です。例えば、将来に大規模地震の発生が懸念される南海トラフ沿いでは、歴史記録によってこれまでに繰り返し大きな地震や津波が発生したことがよく知られています。このうち1944年昭和東南海地震は南海トラフの東側、1946年昭和南海地震は西側でそれぞれ地震が発生しました。それらの一つ前の1854年安政地震でも南海トラフの東側で地震が発生した後、約30時間後に西側で地震が発生しています。ところが、さらに一つ前の1707年宝永地震では南海トラフのほぼ全域にわたり地震が発生したことが知られており、この地震が現在知られている最大の地震とされています(例えば、地震調査研究推進本部, 2013)。こういった大きな地震津波は過去数千年以上にわたって繰り返し発生してきたと考えられます。しかし、過去に1707年宝永地震津波よりも大きな津波が来襲したか否かという問題に関して、定量的な検討の例はありませんでした。
産総研ではこれまで地質学的な調査と数値シミュレーションとを組み合わせて過去に発生した地震を推定する研究を行ってきました。過去に発生した地震は将来も発生する可能性がある、このような考え方から過去に発生した地震、すなわち古地震の実態解明を進めております。本研究もその一環です。巨礫の分布と津波の数値計算とを組み合わせて地震を推定した研究は過去にも報告例がありますが、本研究は巨礫を形成した母体の岩石が判明している、非常に珍しい調査地を対象としています。
本研究の一部は、JSPS科研費JP18500779、JP20500895、JP24300319、JP16K01223による助成を受けています。
橋杭岩とは和歌山県串本町東岸に位置する、南北に直線的に並ぶ巨岩列です。この巨岩列はマグマの貫入に由来したデイサイトの岩脈が、侵食されずに突出したものであり、その西側には泥岩でできた平坦な波食棚が広がります。その波食棚の上に橋杭岩と同じデイサイトからなる巨礫が千個以上分布しており、橋杭岩から分離したものと考えられます(豊島, 1968)。波食棚はほぼ平坦であるため、橋杭岩から分離して落下しただけでは、巨礫は橋杭岩周辺にあるはずですが、実際には波食棚上に広く分布しています。このことから、巨礫は津波や高潮などの波の作用によって現在の位置まで運ばれたと推定しました。
そこで本研究では、まず分布する1,311個の巨礫の位置や大きさを現地で調査しました。最も大きなものだと長径は7 mに及ぶものがありました。また、巨礫の中には図1のように台座状の泥岩の上に乗ったものも散見されました。これらは巨礫周辺の岩盤面が風化や波の侵食作用で削られ、高度を下げたのに対し、巨礫の直下の岩盤面がそういった侵食作用から免れた結果と考えられます。これは巨礫が比較的長期間その場所にとどまった証拠であると考えられます。
つぎに、これらの巨礫が1707年宝永地震津波で動くかを数値計算で検討しました。計算の条件として、橋杭岩から水平距離で15 mの範囲にある巨礫は単に橋杭岩から自由落下しただけで過去に津波や高潮で移動していないとみなし、それ以外の合計1,103個の巨礫を対象としました。また、1707年宝永地震では地盤が隆起したと考えられており、当時の海面の位置を示す生物化石が現在の海面より1.3 m高い位置にある(宍倉・他, 2008)ので、地盤高を現在の地形から1.3 m低く設定して計算しています。
同地震の断層モデルとして安中・他(2003)、相田(1981a, 1981b)、およびFurumura et al. (2011)を用い、コンピューター上で模擬的に津波を発生させ、津波の高さや流速を計算しました。さらに巨礫に働く海水からの流体力と、巨礫と地面との間の最大静止摩擦力を計算し、流体力が最大静止摩擦力を越える場合に巨礫が動き出すという判定を行いました。なお、計算の初期条件として、本来であれば1707年宝永地震の直前における巨礫の位置の状態を復元して計算を実施すべきですが、当時の状況を把握することは困難です。そこで現在の位置で計算した場合と、巨礫が橋杭岩のすぐそばに位置していたと仮定して計算した場合(準原位置)との2種類を計算しました。この結果、いずれの条件とも全てのモデルにおいて多くの巨礫が動くことがわかりました。しかしながら、特に大きな巨礫など一部で動かない巨礫も存在することがわかりました。このことは1707年宝永地震津波よりも大きな津波が過去にこの地を襲ったことを示しています。
それではどのような津波であれば全ての巨礫が動くのでしょうか。この一つの案として紀伊半島南東沖合にあるプレート境界の分岐断層(Park et al., 2002; Moore et al., 2007)の活動を考えました。1707年宝永地震の津波波源モデルに加え、同時にこの分岐断層も動いた例を考えると、準原位置において全ての巨礫が動く結果となりました。また別の案として、1707年宝永地震の津波波源モデルのすべり量を2倍にして計算を行ったところ、より多くの巨礫が動く結果となりましたが動かない巨礫もまだ存在する結果となりました。このほか、本研究では定量的な解析をしておりませんが、紀伊半島南東沖合での海底地滑りも巨礫を動かす原因かもしれません。
一方、台風高潮による影響についても検討しました。2012年9月に台風17号がこの地を来襲し、当地における1951年以降の観測統計の中で最大級の潮位の上昇がありました。この台風来襲の前後の期間において橋杭岩周辺の巨礫も含めた地形をレーザースキャンにより測定し、両期間の地形を比較することで巨礫が動いたか否かを調べました。この結果、動いたのは非常に小さな巨礫のみで、ほとんどの巨礫は動いていませんでした。さらに、1976年と2007年に撮影された空中写真から巨礫の移動を調べた結果でも、判読可能な範囲では大きな巨礫の移動は確認できませんでした。もちろん未知の巨大な高潮が過去に存在した可能性は排除できませんが、図1のように一部の巨礫は台座の上に乗っており長期間そこに位置しているという事実からも、毎年来る台風の高潮では巨礫は動かず、巨礫が現在の分布をしているのは津波によると考えるのが合理的だと思われます。
図1 台座に乗った巨礫の例。周辺の地面に比べ一段高く位置する。立てかけてあるのは標尺で下側の黄色部分が1 m。
今後は、この巨礫がいつ移動したのか、すなわち巨大津波がいつ襲ったのかについても地質試料の年代測定等を通じて解明することを目指します。また橋杭岩周辺以外にも南海トラフ沿いで宝永地震を超える規模の津波の証拠を探し、検証していきます。
掲載誌:Tectonophysics
論文タイトル:Evidence from Boulders for Extraordinary Tsunamis along Nankai Trough, Japan
著者:Yuichi Namegaya, Hideaki Maemoku, Masanobu Shishikura, Tomoo Echigo
DOI:10.1016/j.tecto.2022.229487