国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)物理計測標準研究部門 応用光計測研究グループ 雨宮 邦招 研究グループ長、清水 雄平 研究員は、株式会社 チノー(以下「チノー」という)と共同で、非接触検温などで用いられるサーモグラフィーの測定温度の精確(精密かつ正確)な基準となる平面黒体装置を開発した。
物体からの赤外線放射量を温度に換算して可視化するサーモグラフィーは、近年、新規感染症の防疫現場において非接触検温に利用されている。ただし、サーモグラフィーは外的要因などに左右されやすいため取り扱いには注意点が多く、精確な温度基準の使用が推奨されている。温度基準としては、これまで平面黒体装置が使用されてきたが、赤外線の放射率が十分でないために周囲の温度や発熱体などの影響を受けやすく、精確な温度測定が困難だった。今回、黒色樹脂の表面構造を工夫して赤外線における理想的な黒体(放射率1)に極めて近い材料を作製し、体温付近における温度と赤外線放射量をプランクの黒体放射の法則に基づき精確に換算できる平面黒体装置を開発した。これにより、サーモグラフィーの性能試験、測定対象・周囲環境の影響といった誤差要因の評価のほか、温度表示の現場校正が可能になる。サーモグラフィーによる体表温度の精確な計測を通じて、非接触検温の信頼性向上へ貢献するものと期待される。なお、この技術の詳細は、2022年1月26日~28日に東京ビッグサイトで開催されるオートメーションと計測の先端技術総合展IIFES2022、および2022年1月31日~2月4日にオンラインで開催される産総研2021年度計量標準総合センター成果発表会で発表される。
今回試作した平面黒体装置(左)、黒体表面の電子顕微鏡像(中央)、サーモグラフィー画像例(右)
新規感染症対策として、水際や人が多数集まる場所などにおいて検温が行われている。特に、物体の赤外線放射量から温度分布を可視化するサーモグラフィーは、体表面の温度を非接触に計測できるので、検疫現場の負担やリスクの軽減に有効である。ただし、サーモグラフィーを含む非接触検温技術は外的要因に影響を受けやすいなどの注意点が多く、測定値の誤差を現場で補正するため、温度基準として平面黒体装置の使用が推奨されている(図1)。プランクの黒体放射の法則に基づき、温度と赤外線放射量の換算を周囲の影響を受けずに十分に小さな不確かさで実現するため、平面黒体装置の黒体材料には1に限りなく近い高い赤外線放射率が求められる。しかし、従来の黒体材料では高放射率と耐久性の両立に課題があり、放射率の不十分な平面黒体装置しかなかった。
産総研は、光や熱放射に関する計量標準の取組の中で、光吸収率の高い(=放射率の高い)材料の研究開発を行い、丈夫な材料の表面に微細な凹凸構造を作製することで、あらゆる光を吸収して、高い耐久性も併せ持つ、新しい光吸収材料を開発してきた。(2019年4月24日産総研プレス発表)。一方、チノーは国内で有数の温度計メーカーであり、高精度な温度計および温度校正装置の製造技術を保有しており、非接触温度計(放射温度計、サーモグラフィー)とともに校正用の黒体炉も手掛けてきた。そこで、産総研とチノーは共同で、体温付近で精確な温度基準となる平面黒体装置を開発した。
なお、本研究開発は、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)令和2年度ウイルス等感染症対策技術開発事業「水際対策に寄与するための非接触体温計測(サーモグラフィ等)技術の信頼性向上」による支援で得られた成果に基づき行われた。
放射率が1の理想的な黒体は、プランクの黒体放射の法則により、赤外線放射量が黒体の温度だけで完全に決まるので、最も精確な放射温度の基準となる。放射率が1より小さいということは、赤外線の反射があることに相当するので、周囲との温度差があったり、近くに発熱体が存在したりすると、背景赤外線の反射が上乗せされる。つまり、赤外線放射量が黒体面の温度だけで決まらないので、精確さが落ちてしまう。従来型の平面黒体装置の放射率は0.96~0.98程度であり、使用環境によっては本質的に0.5 ℃以上の不確かさが生じる可能性がある。
図1 平面黒体装置によるサーモグラフィーの校正と非接触検温システムのイメージ
今回の技術開発のポイントは、理想的な黒体に極めて近い材料を製膜する方法を考案したことにあり、これにより、精確な平面黒体装置の開発に至った。この黒体材料(図2上段左)は、ミクロな凹凸が多数並んだ表面構造(逆マイクロレンズアレイ構造とよぶ)を有した黒色樹脂からなり、ここに入射した赤外線の反射が低減され、高い赤外線吸収率を実現している。キルヒホッフの法則によれば、吸収率は放射率と等しいので、高い放射率が実現したことになる。この逆マイクロレンズアレイ構造の黒体材料は、一般的なサーモグラフィーが検知する赤外線波長 7 μmから14 μmにわたって、平均0.997、最大0.999超の放射率を有しており(図2上段右)、反射率が低いことから背景赤外線がほとんど上乗せされず誤差とならない。このため、赤外線放射量が周囲の影響を受けずに黒体面の温度だけでほぼ決まるので、放射率に起因する温度測定の不確かさを体温付近で0.1 ℃未満に抑えることができた。
この黒体材料は、マイクロレンズアレイの型を転写することで繰り返し作製できるうえ、従来の黒体材料では実現できなかった高い放射率と耐久性の両立を達成している。また、チノーの温度制御技術により、黒体材料の基板温度を均一に安定化することにも成功した(図2下段)。こうして開発した平面黒体装置の試作機では、総合的な表面の放射温度の不確かさ0.2 ℃未満の校正を体温付近で達成できる見込みを得た。これにより、サーモグラフィーの性能試験、測定対象・周囲環境の影響といった誤差要因の評価のほか、温度表示の精確な現場校正が可能になる。チノーはサーモグラフィーによる検温システムも開発しており、今後、体表温度の精確な計測を通じて、非接触検温の信頼性の向上を目指す。
図2 (上段)開発した黒体材料の外観・電子顕微鏡像、および放射率の波長依存性、
(下段)同黒体材料を実装した平面黒体装置の温度均一性、および温度安定性データの例。
今後、開発した平面黒体装置の長期的な安定性の評価などを継続するとともに、その実用化を目指す。また、この平面黒体装置を基にしたサーモグラフィーの評価などを通じて、非接触温度計測の信頼性向上に貢献していく。