国立研究開発法人 産業技術総合研究所 物理計測標準研究部門は国立研究開発法人 理化学研究所 創発物性科学研究センター、国立大学法人 東京大学 大学院工学系研究科、国立大学法人 東北大学 金属材料研究所と共同で、強磁場発生装置を用いることなく電気抵抗の精密測定(8桁の精度)を可能にする新型量子抵抗標準素子を開発した。
電気抵抗は、電流の流れにくさを反映した物理量である。現在、異なる国や地域においても抵抗の測定値にずれが生じないように、物理現象「量子ホール効果」により電気抵抗の値が量子化抵抗値と呼ばれる一定値をとる量子ホール素子を抵抗測定の基準(抵抗標準)として採用している。量子ホール効果は強磁場下で発現する現象であるため、超伝導電磁石などの大型で高価な強磁場発生装置(概要図(右))を用いる必要があり、手軽な運用が難しかった。このため、強磁場を用いずに利用可能な抵抗標準の開発が世界各国で進められていた。今回、2016年ノーベル物理学賞の受賞理由の一つである、新材料トポロジカル絶縁体において発見された弱い磁場下でも量子化抵抗値を示す現象(量子異常ホール効果)に着目した。この新材料を応用し、ホームセンターなどでも安価に入手でき、利用が容易な小型磁石により発生した弱い磁場を用いて国家計量標準と同等な8桁の精度を持つ量子抵抗標準素子を実現した(概要図(左))。大型・高価で取り扱いの難しい強磁場発生装置が不要になったことにより、最高精度の抵抗標準の小型簡便化が可能になり、民間企業を含めたさまざまな現場での使用が期待される。なお、この技術の詳細は、2021年12月13日(英国時間)にNature Physics誌にオンライン掲載される。
(左)小型磁石を用いる新型量子抵抗標準素子、(右)従来必要だった強磁場発生装置との比較
私たちの身の回りにあるほとんど全ての電気製品には、抵抗器と呼ばれる電子回路部品が使われている。電子回路が設計通りに動作するためには、個々の抵抗器が必要な性能を有している必要があり、その確認のために正確な電気測定が求められる。したがって、抵抗値を正確に測定する計測技術は、現在のエレクトロニクス社会を支える基盤とも言える。
現在、異なる国や地域においても抵抗の測定値にずれが生じないように、物理現象「量子ホール効果」により電気抵抗の値が量子化抵抗値と呼ばれる一定値をとる量子ホール素子を抵抗測定の基準(抵抗標準)として用いている。しかし、量子ホール効果は、低温(絶対温度1度(1ケルビン)以下)かつ強磁場下(地磁気の約20万倍である10テスラ以上)で起こる現象である。強磁場の発生には、超伝導電磁石などの強磁場発生装置が用いられる。強磁場発生装置は大型で高価であることに加え、その周囲への漏れ磁場の影響が大きいため、電子製品や工具などの磁性体を近くで用いることができない。そのため、計測装置開発メーカや計測器の測定値を保証する校正事業者などの民間企業で直接利用できる手軽なものではなかった。強磁場発生装置を用いない簡便な抵抗標準を実現できれば、国家標準と同等精度の抵抗標準を民間企業などのより多くのユーザーが直接使用できるようになり、電気計測の精度の向上が期待される。そのため強磁場発生装置を用いない抵抗標準の研究が世界中で行われていた。
本研究ではトポロジカル絶縁体で発現する「量子異常ホール効果」と呼ばれる現象に着目した。トポロジカル絶縁体は世界中で活発に研究が進められている物質であり、その基礎となる理論的研究に対して2016年にはノーベル物理学賞が授与されている。量子異常ホール効果は、「量子ホール効果」と同様にホール素子の電気抵抗の値が量子化抵抗値となる物理現象であるが、量子ホール効果と違い、小型磁石(数100ミリテスラ程度。ホームセンターなどで購入可能な事務用マグネットに相当)程度の弱磁場で発現するため、強磁場発生装置を必要としない。そのため、量子異常ホール効果を用いた抵抗標準素子が開発できれば、超伝導電磁石などの強磁場発生装置が不要になると期待される。しかし、これまでの量子異常ホール効果を用いた測定では、わずかに電流を流しただけで期待される量子化抵抗の値からずれてしまうという不安定性の問題があり、電気抵抗測定の基準として用いることができなかった。
本研究では、量子異常ホール効果の電流に対する安定性を高めるため、トポロジカル絶縁体の品質向上に取り組んだ。特に、トポロジカル絶縁体作製時の条件を最適化することによって、実用的な測定電流を流しても量子化抵抗値からの相対的なずれを1億分の1以下に抑えられる安定な素子を実現した。これにより、抵抗の国家標準レベルで必要とされる8桁の精度を持つ抵抗標準のプロトタイプを開発できた。
なお本研究の一部は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業CREST「トポロジカル絶縁体ヘテロ接合による量子技術の基盤創成(研究代表者:川﨑雅司)」などによる支援を受けて行ったものである。
量子異常ホール効果はビスマス、アンチモン、テルル、クロムの4つの元素を適切な比で組み合わせたトポロジカル絶縁体などにおいて発現する。理想的には、これら4つの元素の比がトポロジカル絶縁体全体にわたって均一であることが求められる。しかし、実際に作製されるトポロジカル絶縁体では、濃度のばらつきにより元素の比が不均一な箇所が生じ、電流に対する不安定性の原因となっていた。今回、元素の比や素子構造、素子作製時の温度などの条件を最適化することによって不均一性を低減し、電流に対する安定性を改善した。図1(左)は、作製したトポロジカル絶縁体を加工して作製した素子の光学顕微鏡写真である。素子は集積回路用パッケージに搭載し、配線されている。まず、作製した素子の電流に対する安定性を確認するための抵抗測定を行った。図1(右)は作製した素子の電気抵抗値の測定電流依存性を弱磁場下(小型磁石が作る200ミリテスラ程度)において測定した結果を示す(図では量子化抵抗値からのずれを相対値で表示)。測定電流が2マイクロアンペア以下のとき、量子異常ホール効果によって、抵抗値の量子化抵抗値からのずれがゼロに近づいている。一方、2マイクロアンペア以上では、量子化抵抗値からずれていく様子が観測された。この結果から、2マイクロアンペア程度の電流を流しても量子化抵抗値を維持できることが分かった。マイクロアンペアという電流量は、これまでに報告されている値より2桁程度大きな電流量である。これは、測定電流に対する安定性が大幅に改善したことを示している。
図1 (左)トポロジカル絶縁体を用いて作製した量子抵抗標準素子。(右)抵抗値の量子化抵抗値からのずれ(相対値)の測定電流依存性。
強磁場発生装置を用いない抵抗標準を実現するために、図2(左)のように素子と小型磁石を組み合わせたプロトタイプを開発した。従来の抵抗の精密測定で使用してきた強磁場発生装置である超伝導電磁石(図2(右))と比較すると、磁場発生部分で体積25万分の1、重量2万分の1と大幅な小型軽量化を実現できた。従来の抵抗標準では、超伝導電磁石を冷却するために冷凍機自体も大型であったが、今回の小型化によって冷凍機を含めた抵抗標準装置全体の小型化が可能になる。コストの面でも、1千万円前後する高価な超伝導電磁石を100円未満の小型磁石に代替でき、かつ冷凍機もより安価な小型なものに変更可能になる。また、小型磁石は磁場が漏れる範囲もセンチメートル程度と小さいため、周囲の実験環境への影響もほとんどない。
図2 (左)小型磁石を用いる新型量子抵抗標準素子と、(右)従来必要だった強磁場発生装置との比較
次に、開発したプロトタイプの性能評価を行った。図1の測定は電流に対する安定性を確認するためには十分なものであったが、ここでは最高性能を評価するためにより高精度な測定を実施した。この評価のために、小型磁石を用いて発現させた量子異常ホール効果を利用する新型抵抗標準素子と、強磁場発生装置を用いて発現させた量子ホール効果を利用する従来の抵抗標準素子のそれぞれの抵抗値を求めた。図3は、それぞれの素子で測定された抵抗値の量子化抵抗値からのずれを相対値で比較したものである。この測定から、強磁場発生装置を用いない新型素子は、強磁場発生装置を用いた従来の素子と同様に8桁の精度を持つ抵抗標準を実現できることが分かった。産総研が国家標準として提供している抵抗校正の校正測定能力を実現するには、抵抗標準の相対標準不確かさが28×10-9程度であることが必要である。図3に示すように、新型抵抗標準素子の値は不確かさを考慮してもその値の範囲に収まっており、国家標準と同等精度の抵抗標準として利用できることを確認した。
図3 新型抵抗標準素子、従来の抵抗標準素子それぞれで測定された抵抗値の量子化抵抗値からのずれ(相対値)。図中の矢印は産総研の抵抗校正における校正測定能力を実現可能な相対標準不確かさの大きさ(±28×10-9)。
今回、強磁場発生装置を用いずに国家標準と同等の精度の抵抗標準を実現することができた。今後はさらに品質改善に取り組み、利便性・信頼性の向上を目指す。また、多くのユーザーにも使っていただけるよう、今回の新型抵抗標準素子を搭載することで小型軽量化した精密電気計測装置などの開発に取り組む予定である。
掲載誌:Nature Physics
論文タイトル:Quantum anomalous Hall effect with a permanent magnet defines a quantum resistance standard
著者:Yuma Okazaki, Takehiko Oe, Minoru Kawamura, Ryutaro Yoshimi, Shuji Nakamura, Shintaro Takada, Masataka Mogi, Kei S. Takahashi, Atsushi Tsukazaki, Masashi Kawasaki, Yoshinori Tokura, and Nobu-Hisa Kaneko