日本電信電話株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:澤田純、以下「NTT」)と国立研究開発法人 産業技術総合研究所(本部:東京都千代田区、理事長:中鉢良治、以下「産総研」)は共同で、微細なメカニカル振動子を用いて固体中の核磁気共鳴*1現象を制御することに世界で初めて成功しました。
昨今、超高速の演算を可能とする量子コンピュータや、絶対的な安全性が期待される量子情報通信、あるいは超高感度の検出技術を提供する量子センサなどの量子技術において、量子メモリ*2の重要性が注目されています。量子メモリとは長い時間、量子状態を保持できる素子であり、その候補のひとつとして固体中の核スピン*3の利用が提案されています。今回、微細なメカニカル振動子が引き起こすひずみにより、核磁気共鳴の周波数を素子単位で制御できることが実験的に示されました。この技術により、集積素子における所望の量子メモリの核スピンを個別に操作することが可能となり、固体素子による量子メモリを実現していく上で、重要な要素技術となることが期待されます。
本成果は、NTTにおいて素子作製・測定を行い、産総研において理論計算に基づいたデータ解析を行うことによって得られたものであり、イギリスの科学誌「ネイチャー・コミュニケーションズ」(8月28日付)に掲載される予定です。なお、本研究の一部は独立行政法人日本学術振興会(東京都千代田区、理事長:里見進)科学研究費補助金 新学術領域研究『ハイブリッド量子科学』 (領域代表 : 東北大学大学院理学研究科教授 平山祥郎)の一環として行われました。
原子核の自転運動である核スピン(図1(a))は、磁場中に置かれると固有の歳差運動をします(図1(b))。この歳差運動は、長時間にわたって状態を維持できる性質を利用して量子情報を記録する量子メモリや、磁場に敏感である性質を利用した磁場センサなど、様々な素子への応用面で注目されています。一般に、核スピンを操作する方法としては、磁場中で歳差運動に共鳴する電磁波を照射する核磁気共鳴法が用いられます。しかし、一様に広がる磁場と空中を容易に伝搬してしまう電磁波を用いる従来の手法では、広い領域で同時に核磁気共鳴を引き起こしてしまうため、多数の素子を小さなチップに配置した集積回路において、所望の素子の核スピンを個別に操作することが困難であるという課題がありました。
今回、このような核スピンを個別に操作するために、核磁気共鳴の周波数が固体中のひずみに対して敏感に変化するという性質を利用しました。材料中の所望の位置に人為的にひずみを発生させることで、核磁気共鳴を素子ごとに制御することが実現可能になります。局所的なひずみを発生するために、ナノ加工技術を駆使して微細なメカニカル振動子*4を作製し、これを用いて、構造が振動するときに発生する周期的なひずみによる核磁気共鳴の制御を試みました。その結果、振動による共鳴周波数の変調や、振動ひずみと電磁波が組み合わさって引き起こされる新たな核磁気共鳴(サイドバンド*5共鳴)を世界で初めて観測することに成功しました。
作製した振動子(図2(a))は両もち梁*6と呼ばれる構造を有し、圧電半導体であるガリウムヒ素(GaAs)を微細加工することにより作製しました。圧電効果*7を用いてこの構造を電気的に振動させることにより、梁構造の根元の部分に周期的なひずみを発生させ(図2(b))、このひずみが発生している箇所の材料中に含まれる核スピンの振る舞いを変化させることができます。実験では、周期ひずみによる磁気共鳴周波数の変調(図3)に世界で初めて成功した他、梁構造の振動周波数だけずれたところに共鳴ピークが現れるサイドバンド共鳴(図4)と呼ばれる新しい核磁気共鳴現象の観測に成功しました。観測した実験結果は、いずれもひずみと核スピンの相互作用モデルに基づいた理論計算の結果とよく一致していることから、振動子によって発生させたひずみによる効果であることが実証されました。
(1)結晶中でひずみが生じると核スピン周囲の原子の配置が変化するため、核スピンの状態が変化します。特に振動するひずみと核スピンが相互作用する現象は、核音響共鳴と呼ばれ、50年以上前から知られていました。しかしながら、核音響共鳴を利用した核スピンの制御には、極めて大きな振動ひずみ(音波)が必要であり、その発生はこれまで容易ではありませんでした。本研究では、通常の音波より格段に大きなひずみを発生させるために、鋭い共振と高い制御性を有するメカニカル振動子を利用するという新しい手法がブレイクスルーとなり、共鳴周波数の変化やサイドバンドの観測を世界で初めて実現することに成功しました。
(2) サイドバンド共鳴は、核スピンと振動ひずみが合わさった効果によって説明される新しい核磁気共鳴現象です。サイドバンド共鳴を利用することで、素子単位で個別に核スピンを操作したり、逆に核スピンの向きを読み出したりすることが可能になり、核スピンに情報を読み書きする量子メモリや量子センサを多重化・集積化するプラットフォームとして活用できます。
メカニカル振動子は、トランジスタなどと同様に半導体ナノ加工技術によって作製されるため、半導体チップへの組み込みが可能です。本技術を用いて複数の素子における核スピンの選択的制御を実現し、量子メモリや量子センサなどの集積化に向けたプラットフォームとしての活用を目指します。