国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)ナノ材料研究部門【研究部門長 佐々木 毅】ナノ界面計測グループ 宮前 孝行 主任研究員は、キリン株式会社【代表取締役 磯崎 功典】(以下「キリン」という)R&D本部酒類技術研究所【所長 井戸田 裕二】加藤 治人 主任研究員、加藤 優 主任研究員らと共同で、表面の解析に有効な分光法を用いてビール表面を直接測定し、表面におけるホップ由来の分子とビールに含まれるタンパク質の挙動を明らかにした。これらはビールの泡の形成・安定化に重要な情報である。
ビールの泡には、タンパク質とホップの成分が含まれることはこれまで知られていたが、それらが泡中の液体部分に存在するのか、気体と液体との界面(気液界面)に存在するのかは不明であった。今回、固体や液体の表面・界面に存在する分子の振動スペクトルを選択的に測定できる和周波発生分光法(SFG分光法)を用いてビールの表面を調べたところ、ビールの表面にはビールの苦味の元を含むホップ由来の分子とタンパク質の両方が存在すること、さらに表面に現れているホップ由来の分子の存在量とビールの泡の安定性に相関があることが明らかになった。
なお、この成果の詳細は、2018年8月10日(日本時間)に日本化学会の学術誌のChemistry Lettersに掲載される。また2018年9月10~13日に福岡国際会議場(福岡市博多区)で開催される第12回分子科学討論会でも発表される。
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ビールの泡の気液界面に含まれているホップ由来の分子とタンパク質の様子の概念図 |
ビールは、人類が発明した最も古いアルコール飲料であり、その起源はメソポタミア文明にまでさかのぼることができる。ビールの主な原料は水、大麦を発芽させた麦芽、ホップ、ビール酵母などである。中でもホップは、中世ヨーロッパでビール醸造に使用され始めて以来、ビールにとって欠かせない原料となっている。ホップはビールに独特の苦味と爽やかな風味を与えるだけでなく、天然の殺菌剤として保存性を高める作用を持つ。
ビールに苦味を与えるホップの成分は、主に苦味成分であるイソフムロン類であり、イソフムロン類はビールの泡の形成にも影響を与えていることが知られている。ビールにとって、泡は見た目だけでなく商品の価値を決めるために必要不可欠な要素であるとともに、泡が長時間安定していること(泡持ち)はビールの品質や商品価値の向上にとっても重要である。そのため、ビールの泡の形成や安定化を担う液体表面の分子挙動を調べることが求められていた。
産総研は、材料表面や界面の分子情報を選択的に計測・評価する手法として、SFG分光法を用いた有機物界面の評価・解析技術の研究開発を進めてきた。これまでにも、液体表面の解析事例として、硫酸水溶液の表面をSFG分光法で調べ、長らく不明であった硫酸水溶液表面の酸解離状態を明らかにしてきた(産総研TODAY 8巻7号 [PDF:404K])。
SFG分光法は、物質の表面や界面からだけ発生する特異な光を利用した測定法であり、固体や液体の表面、界面での分子の配向、秩序性、相互作用などを調べることができる。また、光を使った手法であるため、加熱や冷却など試料の温度や環境変化による表面の状態変化を調べることもできる。
今回、SFG分光法による液体表面の解析技術を用いて、キリンと共同でビール表面の分子挙動と泡の形成に必要な分子の情報との関連を詳しく調べることとした。
一般に、「泡」は気体と液体からなり、親水性部分と疎水性部分をあわせ持つ分子がその境界面、つまり液体表面に存在している。ビールの泡の場合、泡の形成や安定化にはタンパク質など液体中に含まれる高分子量の分子が重要な役割を果たしていると考えられ、これまでにも液体内部を調べて、タンパク質の作用と泡の形成や安定性との関連を調べる研究が数多く行われてきた。しかし、泡は液体の表面で発生するため、泡の形成過程を調べるにはビール表面の情報が必要であるが、液体表面を分子レベルで調べる手法がほとんどなかったため、ビール表面の分子の構成が液体内部と同じなのかどうかは全く不明であった。
そこで今回、ビールの液体表面のSFG分光測定により、特に気体と液体との界面の分子挙動を調べた。ビールは冷やして飲まれることが多いため、試料ステージを3 ℃に冷却して、冷えた状態のビール表面のSFGスペクトルの測定を行った。
まず、醸造時にホップが添加されている通常のビールとホップが添加されていないビールのSFGスペクトルを測定したところ、ホップが添加されているビールにだけ2926 cm-1の位置にピークが観測された(図1)。次に、ビールの主要成分の、ホップエキス(イソフムロン類)、ホップに含まれるポリフェノールの一種であるイソキサントフモール、エタノール、およびビールから抽出したタンパク成分を、それぞれビールと同一濃度にした水溶液を参照試料として作成し、SFGスペクトルを測定した(図2(a)~(d))。ホップエキス水溶液とイソキサントフモール水溶液では、ビール表面と同じ位置にSFGのピークが見られたのに対し、ビールに含まれるタンパク質水溶液やエタノール水溶液ではこの位置にはピークが見られなかった。このことから、ビール表面のSFGスペクトルの2926 cm-1のピークはホップ由来のイソフムロン類かイソキサントフモールなどに由来すると考えられる。また、醸造時にビールに加えるホップ添加量が異なるビールの表面のSFGスペクトルを測定したところ、この2926 cm-1のピークは、ホップ添加量の増加とともに強度が増していく傾向を示した(図3(a))。後述の図4で用いた市販のビールのホップ添加量は4.36 g/Lであり、図3の◎にあたる。これらの実験結果は、ホップ由来の分子は表面に集まる傾向にあることを示している。
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図1 ビール表面のSFGスペクトル
赤矢印はホップ添加で見られるSFGの信号 |
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図2 ビールを構成する主要成分の水溶液表面のSFGスペクトル
(a)ホップエキス水溶液表面、(b)イソキサントフモール-重水素化エタノール-重水溶液表面、(c)5 %エタノール水溶液表面、
(d)ビールから抽出したタンパク水溶液表面 |
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図3 ホップ添加量を変化させたときの(a)ホップ由来のSFGの信号強度の変化と、(b)ビールの泡の持続性のホップ添加量依存性 |
ビール醸造時に加えるホップ添加量を増やしていくと、泡の安定性(泡の持続時間)も向上した(図3(b))。この傾向はホップの添加量を増やしてSFGスペクトルを測定した際の2926 cm-1のピーク強度の増加傾向と良い相関を示しており、ビール表面のホップ由来の分子が多いほど、ビールの泡の安定性が向上することが確かめられた。
泡の安定性には液体の表面粘性が関与することが知られているが、粘性には液中の高分子量分子、特にタンパク質の存在が重要となる。ビールには、ホップとは別の原料由来の高分子量のタンパク質成分が含まれているので、ビール表面のタンパク質とホップとの関連を調べるために、市販ビールを水で希釈して表面のSFGスペクトルを測定した。水で希釈したビール表面のSFGスペクトルでは、タンパク質特有のアミド結合由来の1630 cm-1のピークの強度と、ホップ由来の2926 cm-1ピークの強度が同じ振る舞いを示しており、表面ではホップ由来の分子とタンパク質とが共存していることが強く示唆された(図4)。
これらのことから、ビール表面の水に対してタンパク質とホップ由来成分の疎水性の構造が相互作用してネットワークを形成し、泡の最表面に現れることで高い安定性を持つ泡が形成され、さらに表面に現れるホップの量が増加することで泡がより安定化した、と考えることができる。
ビールの泡の安定化には、表面のタンパク質の存在と共にホップ由来の分子の介在が重要であることは従来から提唱されてきたが、今回、ホップ由来の分子とタンパク質が表面に共存することを、初めて実験的に確認した。
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図4 市販ビールを希釈した時の2926 cm-1のホップ由来のSFGの信号強度の濃度依存性と、アミド結合由来のSFGの信号強度の濃度依存性 |
一般に、泡は材料の特性を大きく変化させることもあるため、泡の形成過程とその表面における分子挙動を調べることは、材料開発など他の分野にとっても重要な課題である。今後は、今回用いた表面・界面計測、解析技術を気液界面の分子挙動やさまざまな材料の特性解明へつなげていく。