国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)人間情報研究部門【研究部門長 持丸 正明】身体適応支援工学研究グループ 井野 秀一 研究グループ長、菅原 順 主任研究員は、テキサス大学 オースティン校 田中 弘文 教授、株式会社 フクダ電子【代表取締役社長 白井 大治郎】(以下「フクダ電子」という)らと、三重県志摩・鳥羽地区ならびに千葉県南房総市白浜に在住する海女121名を含む女性203名(平均年齢65歳)の血管年齢計測を行い、同年代の日本人一般女性の血管年齢より11歳程度若いことを明らかにした。また、呼吸機能の一つである呼気能力はやや低い計測結果が得られた。
動脈壁の硬さを意味する動脈スティフネスは加齢とともに増大し、心血管疾患の発症リスクとなる。これに対し、ウォーキングやジョギング、水泳などの有酸素性運動を習慣的に行うことで、加齢に伴う動脈スティフネスの進行を抑制、改善することが明らかにされている。また、有酸素性運動は呼吸機能の向上をもたらすことが示されてきた。しかし、海女の労働形態は息止め潜水の繰り返しであり、有酸素性運動とは異なる身体活動である。それゆえ、海女の呼吸機能が平均的であるにもかかわらず動脈スティフネスが低値で血管年齢が若いことは、習慣的な有酸素性運動の効果とは別のメカニズムによりもたらされた可能性を示唆する。この知見をもとにさらに海女の活動と身体機能のメカニズムを解明することで、新たな心血管疾患予防法の創出が期待される。
この成果の詳細は、American Journal of Physiology - Regulatory, Integrative and Comparative Physiology5月号電子版および雑誌版に掲載される。
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志摩・鳥羽・白浜地区に住む女性の動脈硬化度(左)および推定血管年齢と実年齢との差(右) |
心血管疾患は、我が国の主な死因の第2位である(厚生労働省「平成26年(2014) 人口動態統計の年間推計」より)。また、世界保健機構(WHO)の調査によれば、70歳以下の非感染症疾患における世界第1位の死亡原因である(WHO Global status report on noncommunicable diseases 2014より)。そして、これらの疾患の発症リスクとして近年注目されているのが、動脈壁の硬さを示す動脈スティフネスである。動脈スティフネスは加齢とともに増大するため、動脈スティフネスの維持・改善が、心血管疾患発症の一次予防として重要視されている。これに関して、有酸素性運動を中心とする身体活動を習慣的に行うことで、維持・改善できることが報告されている。そして、このような知見に基づき、習慣的な有酸素性運動の継続的実施が推奨されている。ウォーキングやジョギングなどに代表される有酸素性運動は、比較的簡単に行うことができる簡便な運動ではあるが、誰もが日常生活に取り入れられるとは限らない。それゆえ、ほかの運動、あるいは身体活動の効果についても検証を重ね、効果的な動脈スティフネスの増大予防・改善法を探索する必要がある。また、余暇時間の活動に限らず、身体労作を伴う労働も含めて、総合的に身体活動の影響を検討する必要がある。
産総研の人間情報研究部門では「国民の豊かな生活を支えるための健康維持増進支援技術に関する研究開発」を推進している。その一環として、身体適応支援工学研究グループでは、心血管疾患の発症予防を目的とし、その発症リスクである動脈硬化度の測定手法の開発や評価機器開発を進めるとともに、発症予防のための効果的な手法を探索するため、身体活動や運動を中心とするライフスタイルが加齢に伴う動脈スティフネスの進行に与える効果の解明について、研究を進めてきた。今回の研究では、海女という極めて特殊な労働形態に着目し、その身体活動が動脈スティフネスに与える影響を検証した。
なお、本研究は、独立行政法人 日本学術振興会の外国人研究員招へい事業(短期)「Vascular function and structure of Japanese pearl divers (Ama)(平成27年度)」による支援を受けて行った。
産総研は、テキサス大学 オースティン校、およびフクダ電子らとともに、三重県志摩・鳥羽地区ならびに千葉県南房総市白浜に在住する女性203名(平均年齢65歳)の血管年齢計測を行った。質問紙により、(1)現役海女、(2)有酸素性運動を習慣的に行っている女性、(3)運動習慣を有さない女性、の3群に分け、動脈スティフネスを計測した。動脈スティフネスは、心臓から足首までの動脈脈波伝播速度を血圧で補正した指数である「Cardio-ankle vascular index(CAVI)」にて評価した。さらに、5,000名以上の健常な日本人を対象に作成された「年齢とCAVI値の関係式」を用いて、得られたCAVI値を「血管年齢」に換算した。その結果、CAVI値は、運動習慣を有さない群に対して、有酸素性運動を習慣的に行っている群で5.8%、海女で7.4%低値を示した(図1)。CAVIは動脈スティフネスの指標で、値が小さいほどスティフネスが低い(血管がしなやかである)ことを示す。運動習慣を有さない女性と比較すると、有酸素性運動を習慣的に行っている女性と現役海女の動脈スティフネスは有意に低く、血管がしなやかであることがうかがえる。
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図1 動脈スティフネスの比較
グラフは平均値±標準誤差で表記し、★は運動習慣のない女性との有意差を示す。 |
血管年齢を実年齢と比較すると、運動習慣を有さない女性は平均で約6歳、有酸素性運動を習慣的に行っている女性は平均で約8歳、現役海女にいたっては平均で約11歳、実年齢よりも若いという結果となった(図2)。すなわち、現役の海女は運動習慣を有さない同地区の女性より約5歳、運動習慣を有する同地区女性より約3歳若いことになる。
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図2 血管年齢と実年齢との差の比較
CAVI値から算出した血管年齢と実年齢との差を求めると、現役海女は一般的な日本人女性よりも血管年齢が10歳以上若いことが示唆された。 |
なお、今回対象とした運動習慣を有さない女性の血管年齢が実年齢よりも若いという結果は、漁村部に住む住民の動脈スティフネスが、農村部に住む住民の動脈スティフネスよりも低値だったという先行研究と一致する。この先行研究では、食習慣の違いなどの地域性に起因すると推察されている。また、有酸素性運動を習慣的に行っている女性の結果も、習慣的な有酸素性運動の実施で動脈スティフネスが低下(改善)するという我々の先行研究と一致し、有酸素性運動の有効性を否定するものではない。
今回得られた成果で興味深いことは、海女の動脈スティフネスが習慣的に有酸素性運動を行っている者と同様に低値を示し、血管年齢に換算した場合には一般的な日本人の女性よりも10歳以上も若かったということ、および海女の呼吸機能が運動習慣のない同年代の一般女性と同等であったこと、である。
海女が日常的に行っている息止め潜水は有酸素性運動とは明らかに異なる運動である。例えば、心拍数は有酸素性運動中には上昇するが、息止め潜水中にはむしろ下がる。しかし、水圧の影響を受け、心臓に戻る血液量が増えるため、心臓が1回収縮したときに送り出される血液量(一回拍出量)は増える。このような一回拍出量の変化によって、しなやかな動脈壁が維持されていると推察される。
また、海女の肺活量は運動習慣のない一般女性よりも高いものの、一秒間でより多く空気を吐き出す能力(一秒率)は低いという結果が得られている(図3)。これは、「磯笛」と呼ばれる海女特有の呼吸法に関係していると考えられる。一般的に、有酸素性運動は呼吸機能の向上をもたらし、一秒率も増大することが明らかとなっているが、少なくとも、そのような効果を生み出す高強度の有酸素運動を行わずとも、動脈の機能を維持・向上できる可能性があることが示唆された。
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図3 呼吸機能の比較 |
海女は運動習慣のない女性に比べ、努力肺活量が有意に高いが、1秒間にどれだけ速く呼息できるかという能力の指標である一秒率は逆に低いことが示唆された。これは、海女特有の呼吸法(磯笛)に由来すると考えられる。グラフは平均値±標準誤差で、★は運動習慣のない女性との有意差を、†は運動習慣のある女性との有意差を示す。 |
なお、本研究の対象となった海女の経験年数は平均で38年であった。それゆえ、今回観察された効果は、極めて長期間にわたる身体活動の積み重ねによる可能性がある。しかし、有酸素性運動トレーニングによる動脈スティフネスの改善効果については、3か月程度の有酸素性運動トレーニングで観察されることから、今後は数か月程度の比較的短期間の効果についても、検証したいと考えている。
今後は、水中運動に伴う身体機能の適応メカニズムの詳細を解明していく。これにより、既に心血管疾患を患っているような場合や、運動器障害などにより強度が高めの運動トレーニングを実施できないようなケースにも適用し得る、新しいスタイルのリハビリテーション法の提案に繋がることが期待される。また、従来とは異なる新しい身体運動サービスとして、新たな心血管疾患発症予防策の創出も期待される。