独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)ナノシステム研究部門【研究部門長 山口 智彦】ソフトメカニクスグループ 大園 拓哉 研究グループ長、スマートマテリアルグループ 山本 貴広 主任研究員、ソフトマターモデリンググループ 福田 順一 主任研究員は、微細なしわ(マイクロリンクル)状の溝に閉じ込められた液晶中に自発的に形成された周期的な液晶配向構造が、気体試料中のキラリティ(掌性)を持つ光学活性分子とその利き手の検知に利用できることを発見した。
今回開発した技術は、液晶に溶け込んだ気体分子のキラリティに応じて、マイクロリンクル中の液晶の配向構造が変わる新しい現象を利用したもので、構造変化は液晶に気体試料を吹き付けるとすぐに起こり、偏光顕微鏡だけで容易に観察できる。このため、微量の気体試料中のキラリティを常温常圧下で迅速に評価できるセンサーシステムを容易に構成できる。よって、香料などの揮発性化学品分析、環境モニタリングなどへの応用が期待される。
なお、この研究成果の詳細は、2014年4月30日(日本時間)に論文誌Nature Communicationsにオンライン掲載される。
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マイクロリンクルの溝中の液晶の周期的配向構造の変化による光学活性気体分子のセンシング |
医薬品、香料、化学工業、農薬などの広い産業分野に関わる多くの物質、特に有機化合物は光学活性を持ちうる。その中でも揮発性物質については、キラリティやその偏りが、匂いやフェロモンなどの生理活性に影響することや、森林などの環境状態の指標として有用であることが分かってきている。しかし、そのような揮発性物質の気体試料の検知・分離(光学分割)には主に高価で煩雑な分析手法が必要であり、簡便な検知手法が求められている。簡便な手法が実用化されれば、香料や化学品開発の際の簡便なスクリーニング、住・自然環境のモニタリング、科学捜査や臨床診断などの揮発性成分分析に応用でき、産業や国民生活に有益な効果が期待できる。
気体試料のキラリティ分析のためには、これまでに生物の嗅覚系を模倣した人工的なガスセンサーやクロマトグラフィーなどの精密分析手法が開発されている。しかし、これらの手法では、被検出分子のどちらか片方の光学異性体(利き手)と強く相互作用する場があらかじめ必要であり、多様な被検出分子に応じた、相互作用する場の分子デザイン・合成・固定化は容易ではない。また検出にも水晶振動子、半導体素子、光反射素子、質量分析装置といった比較的複雑で高価な装置が必要なことも問題であった。
産総研は、これまでに簡便、安価に作製でき、微細形状を制御しやすい自己組織化マイクロリンクルを利用した機能材料の研究開発を行ってきている。今回、気体試料の簡便なキラリティ分析のために、マイクロリンクルの微小な領域に閉じ込められた液晶の配向構造(2012年2月29日 産総研プレス発表)を応用することに取り組んだ。また、液晶の新機能開拓のために組織横断的なチームとして液晶場機能創発研究班(班長 山本 貴広)を設置し研究に取り組んだ。
なお、今回の研究開発は、産総研の運営費交付金、科学研究費補助金 新学術領域研究(生物規範工学、文部科学省)、学術研究助成基金助成金(基盤C、独立行政法人日本学術振興会)により行った。
今回開発した技術では、自己組織化により形成する表面凹凸構造であるマイクロリンクルを液晶の基板として利用する。このマイクロリンクルは、ゴム基板上に製膜した硬い高分子薄膜の表面に平行な方向へ1軸的圧縮ひずみが加わることで現れる。キラリティセンサーとして利用するのは、このマイクロリンクルの溝にネマチック液晶を閉じ込めると自発的に形成される周期的な液晶配向構造(図1左)である。この液晶配向構造では、局所的な配向ねじれの向きが右巻きの領域と左巻きの領域が、ほぼ同じ長さで交互に繰り返されている。ここに、気体試料を吹き付けると、試料中の光学異性体分子が液晶に溶け込み、一方のねじれの向きの領域長が、エネルギー的に有利になって相対的に長くなる。この現象を利用すれば、光学活性分子の存在や、どちらの光学異性体であるかを視覚的に検知できる。またこの新たに発見した現象は気体分子の溶け込みの速度論や理論モデルに基づく数値計算によって定性的に説明できた。実際の典型的な液晶の応答時間は数秒であり、これは今回用いた液晶の実効的厚みが1マイクロメートル程度と薄いために、気相からの分子の溶け込みや、拡散による濃度均一化が速いためである。また、気体状態の試料を、前もって濃縮や溶解させる作業を行わずに、直接評価できる点も実用上極めて重要である。
液晶中の右巻きと左巻きの局所ねじれ構造の領域は、鋭敏色板を備えた偏光顕微鏡を用いると、青や橙に着色して観測される。このため、光学活性分子による液晶配向構造の変化は、色を伴った領域の長さ(RやL)の変化として簡単に分かる(図1右)。さらに個々の分子について、青か橙の領域のどちらが相対的に長くなるのかと、分子の光学異性体を区別するための性質の一つである旋光性の正負の符号(±)との対応関係をあらかじめ調べておけば、その分子の光学異性体の混合気体試料について、長くなる領域の色を見るだけで、どちらの光学異性体が多いかが分かる。
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図1 マイクロリンクルの溝中の周期的な液晶配向構造の変化による光学活性気体分子のセンシング |
さらに、配向構造の長さの変化から、光学純度や濃度の定量的な評価もできる。このためには、青と橙の領域の長さの差に比例する量 z (バランスの崩れた程度の指標)を顕微鏡像から定量化する。一例として、人が感じる匂いが互いに異なることや、ラットへのストレス低減効果に差があると報告されている(+)リモネンと(-)リモネンについて、さまざまな濃度比(光学純度: ee%)の混合気体試料を吹き付けて得られた z を図2に示す。総濃度や吹き付け速度などが同じ条件では、光学純度に応じて z が変化するので、気体試料の z を測定することで、その気体試料中の光学純度が定量化できる。
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図2 導入リモネンガスの光学純度(ee%)と長さのバランスの崩れの指標 z との関係 |
また、図3には、濃度を変えた場合の z を示す。横軸は純粋な光学活性分子(ee% = ±100)の飽和濃度を1としたときの相対的な濃度である。このように z は濃度に依存するため、このグラフから、物質の濃度を推定できる。またこの図から光学活性分子の種類によって感度が異なることが分かる。感度の差は、分子の飽和濃度、液晶への溶解度、液晶中でのねじれ誘起力など、多くの未知の要因によると考えられる。実際の検出限界は、βピネンでは3 ppm、カルボンでは5 ppm程度であり、高感度で検出できる。また、図3のグラフは、上に凸の曲線となっているが、これは理論モデルに基づく数値計算によって定性的に再現されている。
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図3 各種気体の相対濃度と長さのバランスの崩れた程度の指標 z の関係 |
今回開発した気体のキラリティ検出法の特徴を以下に挙げる:(1)センサー部は、自己組織化で作製できるマイクロリンクルに、ディスプレイなどに広く利用されているネマチック液晶を塗布するだけで、非常に安価に作製でき、(2)測定気体試料を、濃縮や熱処理せずに、常温、常圧、通常湿度条件下で、直接センサー部に吹き付けられるため、操作手順の簡便性に優れ、(3)偏光顕微鏡だけで視覚的に検知でき、鋭敏色板の利用でパターン変化がさらに明確化でき、(4)数秒以内の速い応答時間を示し、(5)ほとんどの場合、溶け込んだ分子は再蒸発し、液晶配向構造自体も、少なくとも数カ月間は安定であるため、センサー部の再利用も可能である。よって、このキラリティ検出法は、野外でも使用可能な、簡便かつ経済的な気体試料のキラリティセンサーとして利用でき、また、液晶における欠陥構造の新たな応答性を利用した原理に基づいており、外的な刺激に容易に応答するソフトマテリアルの特徴を巧みに利用した例である。
今後は、ネマチック液晶の種類や実験条件を最適化して、検知可能な光学活性分子を増やし汎用性を向上させる。またネマチック液晶だけではなく他の液晶相について、マイクロリンクル中で自己組織化した配向構造の応用可能性についても検討し、より特徴的なセンサーや新奇な機能性部材を目指した研究に取り組んでいく。