独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)ナノスピントロニクス研究センター 湯浅 新治 研究センター長、金属スピントロニクス研究チーム 久保田 均 研究チーム長、キヤノンアネルバ株式会社【代表取締役社長 酒井 純朗】(以下「キヤノンアネルバ」という)前原 大樹 研究員、国立大学法人 大阪大学(以下「大阪大学」という)基礎工学研究科 鈴木 義茂 教授は共同で、高出力と高い振動安定性(高Q値)をあわせもつナノコンタクト型のスピントルク発振素子を開発した。
スピントルク発振素子は磁気抵抗膜を用いた電子デバイスで、磁気抵抗膜を構成する強磁性体層中の磁石(スピン)の運動(歳差運動)を電気信号に変換して外部へ出力できる。今回、磁気抵抗膜として磁気トンネル接合膜を用い、その局所領域(約100 nm以下)に電流を注入するナノコンタクト型のスピントルク発振素子を使用した。スピンの向きを磁気トンネル接合膜の膜面に垂直な方向に傾けることで、これまで困難であった歳差運動の安定化を実現し、3000以上の高いQ値を得た。このQ値は、従来の磁気トンネル接合膜を用いたスピントルク発振素子に比べて10倍近く大きな値である。今回の成果は、スピントルク発振素子の実用化を加速し、LSI中に組み込むことが可能なナノスケール発振器や超高感度・高分解能磁界センサー、次世代ワイヤレス通信用マイクロ波発振器などへの応用が期待される。この研究成果は2014年1月10日に「Applied Physics Express」のオンライン速報版で公開される。
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ナノコンタクト型スピントルク発振素子の断面構造
左図:電子顕微鏡写真、右図:模式図 |
直流から交流を作り出せる発振器は、エレクトロニクスの根幹を支える重要な電子デバイスである。携帯電話やタブレット、ノートパソコンなどの携帯型電子機器は、直流電源である電池によって駆動するが、内部の発振器によって高周波信号を生成して高速な演算や無線通信を行っている。近年では携帯型電子機器の高速化、無線信号の高周波化などが一層進んだことから、安価、小型、低消費電力のマイクロ波発振器の重要性が高まっている。
しかし、水晶発振子などを用いた従来の発振器は、振動子がミリメートルサイズと大きく、さらに周波数を高める回路が必要で、小型化が困難であった。これに対してスピントルク発振素子は、マイクロ波帯の周波数を直接発振するため100 nm以下の小型発振器が実現可能であり、動作電圧・電流が0.5 V・10 mA以下と低消費電力で動作する。LSI中に組み込むことが可能なナノスケール発振器や超高感度・高分解能磁界センサー、次世代ワイヤレス通信用マイクロ波発振器など幅広い分野での応用が期待されている。しかし、これまでスピントルク発振素子では高出力と高いQ値の両立が難しく課題となっていた。
スピントロニクス分野には応用上二つの重要な物理現象がある。一つはスピンの配置によって抵抗値が変化する磁気抵抗効果、もう一つは電流によってスピンの方向をコントロールできるスピントルクである。スピントルク発振素子では、この二つをうまく利用して高周波信号を生成するが、発振出力の大きさは磁気抵抗効果の大きさによって決まる。そこで、産総研、キヤノンアネルバ、大阪大学は共同で、巨大な磁気抵抗効果を示す磁気トンネル接合膜のスピントルク発振素子への応用にいち早く取り組み、世界で最も大きな発振出力のスピントルク発振素子を開発している。また、発振周波数を安定化するために、磁気トンネル接合膜に適したナノコンタクト型スピントルク発振素子の開発も行ってきた。これまで、磁気トンネル接合膜を用いたスピントルク発振素子としては、最高レベルのQ値(=350)を実現していたが、磁気トンネル接合膜や素子構造の工夫だけでは1000を超えるようなQ値を得ることは難しく、実用化に向けて1000を超えるQ値を達成することが求められていた。
なお、本研究の一部は科学研究費補助金基盤研究S「高周波スピントロニクス」(研究代表者:鈴木 義茂)の一環として行われた。
高いQ値を得るにはスピンの歳差運動を安定させる必要がある。磁気トンネル接合膜は数nmの磁性薄膜を基本に形成されているが、スピンの方向が膜面内を向いて歳差運動をしていると磁性薄膜の形状磁気異方性の影響によりスピンの軌道が歪んでしまう(図1(a))。そのため、Q値は比較的小さくなり数百程度が限界になる。今回、外部磁界を用いてスピンの方向を膜面に垂直な方向に向けて歳差運動させた。これにより、形状磁気異方性の影響が低減され、スピンは歪みの小さい軌道を描く。図1(b)にスピンが膜面に垂直な方向を向いている場合の歳差運動の軌道のシミュレーション結果を示す。このような状況を実現するには、膜面外方向の外部磁界を加えてスピンの方向を制御する必要がある。図2に膜面から75°方向の外部磁界を加え、その大きさを0~8 kOeまで変化させた場合のスピントルク発振素子の発振スペクトルを示す。外部磁界が6 kOe付近を境に発振周波数が変化し、非常に鋭いピークとなるのが分かる。6 kOeという磁界はこの素子の実効的な反磁界に相当し、これよりも大きな磁界下ではスピンが膜面に垂直な方向を向く。外部磁界が6 kOe以下ではQ値は最大でも100程度であったが、6 kOe以上になるとQ値は1000を大きく超え、最大で3200にまで達した。このように、スピンの方向を制御して異方性磁界の影響を低減することで安定な歳差運動を実現でき、これまで磁気トンネル接合膜を用いたスピントルク発振素子では得られなかったQ値を達成した。
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図1 スピンの歳差運動の軌道の計算結果 |
膜面はxy平面に広がっている。緑色の矢印は磁界の方向を、ピンク色の矢印は軌道運動の中心軸方向を表している。(a)では磁界が1 kOeと弱く、軌道中心軸は面内方向にとどまっている。軌道の形状は歪んだ形をしており、不安定である。(b)は磁界を8 kOeと十分に強くした場合で、軌道中心軸が磁界方向に近く軌道の形状も円に近い。その結果、安定した発振が得られる。 |
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図2 発振出力と発振周波数の外部磁界依存性 |
外部磁界を膜面内から75°方向(図1(b)と同じ方向)に傾けて加え0~8 kOeまで変化させた。赤は発振出力が大きく、青は発振出力が小さいことを示す。6 kOe付近以上では発振出力が大きく、発振の線幅が狭く周波数の安定性が向上している。 |
今回は外部磁界を加えたが、今後は、薄膜材料・素子構造の工夫により外部磁界を加えない状態での発振を実現する。また、他の電子部品と組み合せた回路作製などを行い、実用化に向けて発振器としての性能評価を実施する予定である。さらに、外部磁界の大きさによって発振周波数が変化することを利用した磁気センサーへの応用など、幅広い分野での応用展開を目指していく。