独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)計測標準研究部門【研究部門長 千葉 光一】量子放射科 清水 森人 研究員、齋藤 則生 研究科長は、がんの放射線治療に用いられている医療用リニアックからの高エネルギー光子線に対する水吸収線量標準を開発した。
この水吸収線量標準は、実際にがん治療に用いられている医療用リニアックから放出される高エネルギー光子線をグラファイトカロリーメーターによって計測し、モンテカルロシミュレーションによって水吸収線量へ変換する手法によって開発した。開発した標準によって、がんに照射する高エネルギー光子線の水吸収線量をより正確に評価することが可能となり、高エネルギー光子線を用いた放射線治療の信頼性・安全性への貢献が期待される。なお、開発した標準の詳細は平成25年9月16~18日に大阪大学コンベンションセンター(大阪府吹田市)で開催される、第106回日本医学物理学会学術大会で発表される。
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医療用リニアックとグラファイトカロリーメーター |
医療用リニアックからの高エネルギー光子線の水吸収線量をグラファイトカロリーメーターで
評価する際のセットアップ。左側手前に見えるのがグラファイトカロリーメーター。
写真右奥から左奥に見えるのが医療用リニアック。高エネルギー放射線は、左奥の照射口から出される。 |
近年、日本では放射線を使ったがん治療が進んでいる。日本放射線腫瘍学会による全国放射線治療施設の2009年定期構造調査報告(第1報)によると、国内の医療用リニアックは1990年に311台だったが2009年には816台に増加した。また、この間に新たに放射線治療をうける患者数は年間6万人程度から18万人程度に増加した。
放射線治療は患部にどれだけ正確に放射線を照射するかによって治療の効果が左右される。例えば、照射した線量が5 %少なかっただけで、がんの再発率が約20 %増加することが報告されている。そのため、放射線治療の際にはできる限り正確な線量評価が望まれる。しかし、これまで医療用リニアックの高エネルギー光子線に対する水吸収線量を直接評価する標準が国内になく、線量評価の不確かさを小さくすることに限界があった。
産総研は放射線治療に対する標準として、Co-60ガンマ線の空気カーマ標準を開発・維持してきた。日本医学物理学会では、2002年に「外部放射線治療における吸収線量の標準測定法」を刊行し、空気カーマ標準に基づいて、医療用リニアックの高エネルギー光子線の水吸収線量に基づいた評価手法を定め、国内の線量評価の精度向上に努めてきた。この評価手法は、標準が空気カーマであるのに対して測定が水吸収線量であるため、換算係数を用いており、線量評価の不確かさは5 %程であった。そこで、産総研は、Co-60ガンマ線の水吸収線量標準を開発し、2010年に標準供給を開始した。この標準供給開始を受け日本医学物理学会では2012年に水吸収線量標準に基づいた線量評価手法である「外部放射線治療における水吸収線量の標準計測法」を刊行した。この手法では不確かさは3 %程度と向上した。
この不確かさの主要因は、水吸収線量標準がCo-60ガンマ線について設定されているのに対して、実際に医療現場で使用されている放射線は性質の全く違う高エネルギー光子線であるためである。医療現場ではCo-60ガンマ線と高エネルギー光子線との性質の違いを補正するために不確かさ2 %の感度補正係数を使用している。そこで、高エネルギー光子線によって水吸収線量を直接評価することで感度補正の必要をなくし、不確かさをさらに低減するため、産総研は実際に使われているリニアックからの高エネルギー光子線の水吸収線量評価技術の開発に取り組んできた。
なお、本研究開発の一部は、HPCIシステム利用研究課題(課題番号:hp120020)の成果の一部であり、国立大学法人 東京大学情報基盤センター「若手・女性研究者支援プログラム」(平成24年度)の支援を受けて行ったものである。
今回開発した医療用リニアックからの高エネルギー光子線の標準は、グラファイトカロリーメーターを用いた熱量測定と詳細なモンテカルロシミュレーションによる、水吸収線量への不確かさの小さい変換手法によって実現した。
グラファイトカロリーメーターの写真と概略を図1に示す。グラファイトカロリーメーターはその名の通り、吸収体にグラファイト素子を用いたカロリーメーターである。中心部は3つのグラファイト素子(図1下 赤、緑、青)からなる3重構造になっている。一番中心のコアと呼ばれる部分(図1下 赤)に吸収された高エネルギー光子線のエネルギーは熱となり、コアの温度を上昇させる。この温度上昇を測定して、コアに吸収されたエネルギーを評価する。グラファイトカロリーメーターの内部を真空に保ち、さらにコアの外側のグラファイト素子の温度を制御して、熱がコアから逃げないようにしている。
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図1 左上:グラファイトカロリーメーターの写真、右上:カロリーメーターの内部構造、下:カロリーメーター内のグラファイト素子の概略図。 |
右上図で黒色の部分はグラファイト板、灰色の部分は静電遮蔽用のアルミケース、水色の部分はアクリルである。カロリーメーターの中心部分にあるグラファイト素子は外側からシールド(青色)、ジャケット(緑色)、コア(赤色)の3重構造となっている。 |
医療用リニアックからの高エネルギー光子線を、グラファイトカロリーメーターに100秒間照射したとき、コアの温度は約0.01度上昇する(図2)。このように高エネルギー光子線による温度上昇は非常に小さいため、精密な温度計測技術が必要となる。今回はコアに極小径の温度センサーを取り付け、この出力を微小信号測定用の回路を用いて測定することで温度上昇を計測した。さらに、参照信号としてコアに取り付けたヒーターに電流を流し、この時の温度上昇と比較することでグラファイトに吸収された高エネルギー光子線のエネルギーを求めている。
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図2 コアの温度上昇の一例 |
グラファイトカロリーメーターから得られる値はグラファイト吸収線量であるため、これを水吸収線量に変換する必要がある。そこで、測定とリニアックからの高エネルギー光子線を詳細に再現したモンテカルロシミュレーションによって、不確かさを0.5 %に抑えた変換を行い、水吸収線量を評価している。
今回開発した標準では、不確かさの大きかった感度補正の必要が無くなったため、医療現場における線量評価の不確かさがこれまでの3 %から2 %に軽減され、高エネルギー光子線を用いた射線治療の安全性向上が期待できる。
開発した医療用リニアックからの高エネルギー光子線の標準供給を平成25年11月ごろから開始する。また、平成27年に国際度量衡局と国際比較を行う予定である。一方、医療用リニアックからの高エネルギー電子線に対する国家標準は平成26年度に立ち上げられるよう準備を進めている。