JST目的基礎研究事業の一環として、独立行政法人 産業技術総合研究所(以下、産総研)の今村 裕志 主任研究員、JSTの余越 伸彦 研究員らは、ガリウムヒ素(GaAs)を用いた
半導体人工分子注1)(二重
量子ドット注2))に閉じ込めた2電子スピンの
量子力学的重ね合わせ注3)状態を電気的に測定する方法を理論的に開発しました。
電子は電気的な性質である“電荷”のほかに磁気的性質の“電子スピン”を併せ持っています。近年、この電子スピンをエレクトニクスに積極的に取り入れる「スピントロニクス」と呼ばれる試みが注目を集めています。特に半導体で作られた人工的な原子や分子に閉じ込められた電子スピンは、将来の量子情報処理デバイスへの応用が期待されています。
本研究グループは、半導体二重ドットに閉じ込められた2つの2電子スピン状態(スピン一重項・三重項注4))の量子力学的重ね合わせを電気的に測定する方法を理論的に開発しました。従来の測定方法ではスピン一重項の成分と三重項の成分それぞれが現れる確率を知ることしかできませんでしたが、本方法を利用することで確率とともに2状態間の量子力学的な相対位相を検出することができ、2つの電子スピンの量子力学的な状態を完全に測定することが可能になりました。このような測定方法は基礎物理学の観点から興味が持たれるだけでなく、量子情報処理デバイスの開発に必要な量子状態の初期化や演算結果の確認方法を提供するものであり、半導体人工分子を使った量子情報処理デバイスの開発に大きく貢献することが期待されます。
本研究は、東北大学電気通信研究所の小坂 英男 准教授と共同で行ったものです。
本研究成果は、米国物理学会誌「
Physical Review Letters」に受理され、オンライン版で近日中に公開されます。
本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
戦略的創造研究推進事業 CREST
研究領域:「量子情報処理システムの実現を目指した新技術の創出」
(研究総括:山本 喜久 情報・システム研究機構 国立情報学研究所 情報学プリンシプル研究系 教授/スタンフォード大学 応用物理・電気工学科 教授)
研究課題名:単一光子から単一電子スピンへの量子メディア変換
研究代表者:小坂 英男(東北大学電気通信研究所 准教授)
共同研究者:今村 裕志(独立行政法人 産業技術総合研究所 主任研究員)
研究期間:平成16年10月~平成22年3月
JSTはこの領域で、情報通信技術に革新をもたらす量子情報処理の実現に向けた技術基盤の構築を目指しています。上記研究課題では、ナノテク、スピントロニクス、フォトニクス、量子情報を融合した分野を開拓し、光子キュービットから電子スピンキュービットへの量子メディア変換を目指しています。
近年、電子商取引が身近になり企業や個人の情報セキュリティ管理が問題になる中、公開ネットワーク上での暗号技術の向上はますます重要視されています。暗号技術向上の1つの方向性として、微小な世界を記述する量子力学の性質を利用した量子情報技術が注目を集めています。量子力学の考え方では、私たちが普段認識している世界とは異なる現象が起きています。量子の重ね合わせはその1つであり、0と1で表示されるデジタル世界とは異なり、0でも1でもある状態が存在すると考えられています。重ね合わせ状態は外部から盗聴される(情報が抜き取られる)とその特殊な性質(量子性)を失うため、ある意味では絶対に安全な情報通信手段と言えます。
量子情報の最小単位である量子ビット注5)には光・電子などさまざまな候補が挙げられています。なかでも将来的な汎用性・集積性を考慮すると、現在の通信デバイスやコンピューターの主要部を占める半導体中の電子を量子情報として活用するというのは自然な流れであると思われます。特に、2つの電子スピン間の相関を量子ビットとするアイデアは集積性や演算効率の面から有用であることが知られており、広く研究されています。この電子スピン量子ビットの実用化は将来の高度情報化社会に向けて急務と思われます。
産総研と東北大学電気通信研究所は、仙台電波工業高等専門学校と共同で、光子と電子スピンとの間の量子メディア変換注6)の研究を行っており、これまでに光を用いて半導体中の電子スピン状態をコヒーレントに書き込み・読み出すことに成功しています。本研究では、電子スピンによる量子演算研究の現状を踏まえて、2つの光子から二重量子ドットに閉じ込められた2電子スピンに転写された任意の量子状態を電気的に読み出す測定方法の開発を目指しました。
図1のように2つの量子ドットが1つずつ電子を保有する時、従来の測定方法ではパウリスピンブロッケード注7)現象(図2)が生じるかどうかで2電子状態がスピン一重項なのか三重項なのかを判定し、量子情報の読み出しを行っていました。しかし、この方法で重ね合わせ状態を測定するとスピン一重項・三重項のそれぞれが現れる確率しか検出できず、量子力学的な重ね合わせ状態の一面しかとらえることができませんでした。
本研究では今回、左右の量子ドット上(図1のLとR)と量子ドット間(図1のB)に配置されたゲート電極の電圧を断熱的に調整した後、左右の量子ドットに滞在する電子数を測定するという方法を提案しました。ここでゲートLとRの操作は2つの量子ドット内の静電エネルギーを、ゲートBの操作は電子の量子トンネル確率をそれぞれ変化させることに相当します。本研究グループは、半導体中電子のスピン―軌道相互作用注8)を考慮した量子トンネル過程を取り入れ、理論的な解析を行いました。
図3に示すような一連のゲート操作を行い、2つの量子ドットに滞在する電子数をそれぞれ測定し、電子の集団として処理するアンサンブル平均を取ると、左右の電子数差は重ね合わせ状態における一重項と三重項の相対位相の関数として振動することを見いだしました。これによりスピン一重項・三重項が現れる確率と2状態間の相対位相を同時に測定することができることとなります。
量子ビットとして利用するスピン一重項(S )と三重項(T0 )の任意の重ね合わせ状態は、ブロッホ球の球面上の点として表現できます(図4)。従来の方法で得られる情報は球面の緯度のみでしたが、本研究成果では球面上の点の位置(緯度と経度の両方)を特定し量子状態の全体像を推定することが可能です。この点において本研究成果は画期的です。このような測定方法は基礎物理学の観点から興味深いだけでなく、量子情報処理デバイスの開発に必要な量子状態の初期化や演算結果の確認方法を提供するものであり、半導体人工分子を使った量子情報処理デバイスの開発に大きく貢献することが期待されます。
電子スピンを利用した量子ビットの実用化には、GaAsなど材料のさらなる高品質化に加え新たな量子機能の付加・強化のための理論的提案も不可欠です。固体素子による量子インターフェースの実現に向けて新たな量子デバイスの設計を行い、将来の量子情報社会の基盤技術を確立したいと考えています。
“Electrical measurement of a two-electron spin state in a double quantum dot”
(2電子スピン状態の量子力学的重ね合わせを電気的に測定)