独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)ナノテクノロジー研究部門【部門長 横山 浩】阿部 修治 副研究部門長、藤田 康元 招聘研究員、草深 美奈子 協力研究員らは、将来にわたって社会に大きな影響をもつと考えられる新技術分野であるナノテクノロジーの研究開発について一般市民の意見を聞くため、フォーカス・グループ・インタビューを実施し、その結果を「ナノテクノロジーと社会に関するフォーカス・グループ・インタビュー調査報告書」として公表した(注1)。これは、研究開発の成果が製品として市場に出るよりはるかに以前の初期の段階でフォーカス・グループ・インタビュー手法を用いて一般市民の意見を聞き、研究に生かす新しい試みである。先行して実施した質問紙調査の結果も踏まえた多角的な分析により、新しい技術開発の方向性を決める議論に専門家以外の一般市民が参加することが可能であり、有効であることが示された。このアプローチはナノテクノロジー以外の新技術分野にも同様に適用可能である。ナノテクノロジー研究部門では今回の調査結果を受け、実効的な市民参加の方法についてさらに検討を重ねた上、ワークショップなどの公開の議論の場を設け、社会に受け入れられる研究開発の方向性の策定に役立ててゆく考えである。
(注1)藤田康元、草深美奈子、阿部修治「ナノテクノロジーと社会に関するフォーカス・グループ・インタビュー調査報告書」産総研ナノテクノロジー研究部門、2006年12月。Web上でも公開予定(http://www.nanoworld.jp/nri_res-repo/)。
遺伝子組み換え農作物の導入に対する反発や受精卵を用いた先端医学研究への強い規制の要求などに見られるように、近年では、社会的影響が大きいと予想される新しい技術の研究開発および実用化に関しては社会の支持なしに進めることができなくなってきた。
ナノテクノロジーの社会的影響についての議論も専門家の間で盛んになっており、一般市民も参加する広範な社会的議論の必要性が指摘されている。しかし、ナノテクノロジーのような極めて新しい分野の研究開発のあり方に関して、一般市民が具体的にどのような形で関与することが可能なのかについてはまだ手探りの状態にある。研究が初期段階にあってその応用をめぐる社会的論争も起きていないときに市民の意見を効果的に反映させるための手法に関して明確になっていないのが現状である。
科学技術をめぐる問題に関して一般市民の声を聞く方法としては、世論調査やインターネットを通じての意見募集に加えて、コンセンサス会議や市民陪審などの直接参加手法の重要性が指摘され、海外では実践例が増えている。直接参加手法は時間をかけて議論できること、一般市民と専門家の双方向的な学習の機会になることが大きな利点である。ナノテクノロジーのような新しい分野に関しても直接参加手法は有効だと考えられ、その試みは始まっている。
社会的意思決定への市民参加に関して先駆的な英国では、ナノテクノロジーに関してワークショップや市民陪審がすでに実施されている。これまで科学技術政策への市民参加手法の導入に熱心でなかった米国でも、2003年に制定された「21世紀ナノテクノロジー研究開発法」に市民参加手法の導入を明記し、ナノテクノロジーに関するコンセンサス会議などの市民参加手法の試みが行われている。
一方、日本では市民参加はきわめて限定的であるが、今後、様々な市民参加手法が実施されてゆくべきだと考えられる。そのためには、まずは既存の社会調査の手法を用いて、ナノテクノロジーに関して多様な人々の意見をモニターし、議論への市民参加の可能性を探ることが必要である。
産総研はナノテクノロジーの社会的影響に関して積極的に取り組み、ワークショップの開催、政策提言、社会意識調査、リスク評価研究、標準化活動などを多角的に進めてきている。その一環として、ナノテクノロジーに対する一般市民の反応を探るため、2004年に質問紙調査を行い、多くの興味深い結果を得た(注2)。この調査を通じて、ナノテクノロジーのような新しい技術に関して一般市民の意思を測ることが十分可能であるとの感触を得、さらに量的調査手法では調べ切れない質的な部分を探るため、2005年10月にフォーカス・グループ・インタビューを実施した。
(注2)藤田康元、阿部修治「ナノテクノロジーと社会に関する質問紙調査報告書」産総研ナノテクノロジー研究部門、2005年9月。Webで公開(http://www.nanoworld.jp/nri_res-repo/)
本フォーカス・グループ・インタビューは、年齢、性別、職業などに関して異なる特性をもつ6グループについて、各2時間のインタビューを行ったものである。ナノテクノロジーに関して特に専門知識をもたない一般市民を対象とするため、科学技術系の専門職は除き、「生活の中における科学技術に関する座談会」というタイトルで参加者を募集した。各グループはおたがいに面識のない約6名の参加者から成る。
インタビューでは、司会者は簡単な配布資料に沿ってナノテクノロジーに関する説明を少しずつ行う。あらかじめ用意したいくつかの質問を行って、なるべく全員から答えを得るようにした。取り上げたテーマは、ナノテクノロジー全般および具体的な応用技術の例、それらの利便性とリスク、および全体的な政策的取り組みについてである。
インタビュー後に作成した発言録をもとに以下の点に関して分析した。人々はナノテクノロジーにいかなる印象を抱いているか。何がナノテクノロジーの利便性と捉えられていたか。何がナノテクノロジーのリスクと捉えられていたか。行政、企業、研究者への信頼とそれらの責任についての意見。市民参加の可能性について。
グループ間の比較や、分析結果は報告書(注1)に詳細に記述しているが、主な結果は次のとおりである。
多くの参加者はナノテクノロジーの肯定的な印象と否定的な印象の両面について語り、その語り方は多様ではあるものの、結果として、ナノテクノロジーに対する期待と不安を比べたときに、期待の方が大きいと考えていた。よって極めて肯定的なイメージが抱かれていると言える。ナノテクノロジーの利便性の中では、ドラッグ・デリバリー・システムによる副作用のないガン治療薬など、医薬分野の応用に対する期待が特に高い。一方、リスクに関しては、特に女性グループの参加者を中心に、ナノ粒子が身体に入った場合の安全性を懸念する意見があり、また、ナノロボットのような異物が身体に接触することの違和感が語られた。
安全性や社会的影響に関する政策的取り組みについては、アスベスト問題の例がよく引き合いに出され、行政や企業への不信感が滲み出ていたが、今後の新技術の安全性への取り組みについては、行政による監督・誘導の役割を重視する意見と、開発企業の自主的な管理・規制を重視する意見とに分かれた。もっと一般市民が知ることが必要だという意見や、ナノテクノロジーの研究開発をどのように進めてゆくかについて積極的に研究者との対話を望む声も多かった。
今回のフォーカス・グループ・インタビューにおける議論の特徴をまとめると次のようになる。
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普段あまりなじみのない最先端技術の話題であるにもかかわらず、適切な情報提供と参加者間の相互作用により、個々人の生活実感や経験と結びついた多様な意見が出された。
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インタビューの進め方として、まず利便性についての情報を提供し、その後でリスクについての情報を提供した場合、結果としてネガティブな反応に傾くおそれもあったが、実際にはそうはならず、最後まで利便性とリスクを冷静に比較する発言が続いた。
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このような将来発展する技術について問題が顕在化する前の段階の議論に一般市民が関心を持つかどうかという点について、積極的な情報提供を望む声や研究者との対話を望む声が多く出されたことから、十分に高い関心があることがわかった。
これらは少人数によるフォーカス・グループの利点を反映した結果であるが、ナノテクノロジーのような極めて新しい分野に関しても、適切な手法の選定と適切な計画により、研究開発の方向性を決める議論に専門家以外の一般市民が参加することは十分に可能であることを示すものである。
ナノテクノロジー研究部門では、今回のフォーカス・グループ・インタビューの経験と結果をもとに、実効的な市民参加の方法についてさらに検討を重ねた上でワークショップなどの公開の議論の場を設け、社会に受け入れられるナノテクノロジー研究開発の方向性の策定に役立てるとともに、より広く新技術の研究開発を一般市民も参加する社会的議論とともに進めるような新たな仕組みの提言に結びつけてゆきたい。