独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)糖鎖工学研究センター 糖鎖遺伝子機能解析チーム 成松 久 チーム長および 亀山 昭彦 主任研究員は、がん、免疫、感染症、再生医療などの鍵を握る生体分子「糖鎖」について、糖鎖遺伝子、糖鎖合成ロボット、糖鎖微量迅速解析システムの3大研究ツールの開発に世界で初めて成功した。これらのツールを利用することによって、核酸や蛋白質だけでは説明できなかった様々な生命現象を探る研究が飛躍的に加速すると期待される。
糖鎖は、構成分子が一直線に並んでいる核酸や蛋白質とは異なり、枝分れ構造や立体異性の違いに基づく複雑な構造をしている。そのため有機合成で糖鎖を作る場合、1種類作るだけでも半年から1年かかる。産総研では、多種類の糖鎖遺伝子を利用して糖鎖を合成する酵素を160種類以上も作成し、さらにこれらの酵素を利用して、さまざまな糖鎖を一度に短時間で合成するためにエンザイムキュー合成法と呼ぶ糖鎖ライブラリ合成法を考案した。今回、初めて開発された糖鎖ライブラリ自動合成ロボットは、この手法を活用したものであり、数十種類の糖鎖からなる混合物(ライブラリ)を2日間で合成できる。また、有害な有機溶剤などを使わないので環境にもやさしい。
さらに産総研は、株式会社 島津製作所【代表取締役社長 服部 重彦】(以下「島津」という)、三井情報開発株式会社【代表取締役社長 増田 潤逸】(以下「MKI」という)と共同で質量分析スペクトルデータベースを用いた糖鎖微量迅速解析システムを開発した。糖鎖は構造の複雑さゆえに分析も難を極め、単純な配列解析では構造を明らかにできず、様々な分析法を組み合わせても解析は容易ではなかった。産総研では島津の 田中 耕一 氏らが開発した質量分析計(AXIMA-QIT)を用いて糖鎖の多段階タンデム質量分析スペクトルを調べる中で、糖鎖毎に固有のスペクトルパターンがあることを見出し、指紋照合の原理で構造解析に応用することを考え、様々な糖鎖のスペクトルパターンをデータベース化してきた。MKIはデータベースの中から類似するスペクトルパターンを持つ糖鎖を探し出す情報処理システムを開発した。島津はその情報処理システムと質量分析計をインターネットによって連携させるためのソフトウェアを開発した。この糖鎖微量迅速解析システムを利用すると、わずか1ナノグラムの試料から数分で複雑な糖鎖構造を解析できる。
核酸、蛋白質は、それぞれに配列解析装置や合成機などが開発され研究が飛躍的に進展してきたが、生体内に存在する第3の鎖状分子である糖鎖についてはそのような装置はなく、その開発が長らく望まれていた。遺伝子と、合成および構造解析の装置が揃ったことで、今後、がん、免疫、感染症、再生医療の鍵である糖鎖の研究が飛躍的に加速、病気の早期診断法の開発や新薬のターゲット分子の同定に期待がかかる。今回の成功は、独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構(以下「NEDO」という)の「糖鎖合成関連遺伝子ライブラリーの構築」「糖鎖構造解析技術開発」の二つのプロジェクトにより支援された。この成果は、神戸市で開かれている日本生化学会大会で10月22日に発表される。
糖鎖の研究は日本のお家芸で、構造解析、合成、機能研究いずれも世界の最先端をリードしてきた。一方、ヒトゲノムが解読され、現在はポストゲノムとしてプロテオミクスと呼ばれる蛋白質の網羅的解析が世界的な規模で精力的に進められている。しかし蛋白質の半数以上には糖鎖が結合しており、蛋白質の機能をコントロールしていることが判ってきた。そのため、プロテオミクスに続くポストゲノムの研究課題として、アメリカ、EUでも糖鎖に関する大型プロジェクトがスタートしている。核酸や蛋白質とは異なり、糖鎖は一筆書きできない樹状構造であるため配列解析装置も自動合成装置もなく、また核酸のように増幅させることもできないため、課題は山積している。
産総研では大阪大学、愛知医科大学、名古屋大学、創価大学などと協力して、平成13年度から15年度までNEDOからの受託事業として「糖鎖合成関連遺伝子ライブラリーの構築」(プロジェクトリーダー、成松 久)を実施した。その結果、様々な糖鎖を有機合成ではなく生物的な手段で合成する道を開くことができた。平成15年度からは、同じくNEDOからの受託事業として糖鎖機能の解明を進めるために重要となる「糖鎖構造解析技術開発」を実施している。今回の成功は、これらプロジェクトの成果の一部である。
従来、糖鎖の構造解析は、特別な技術を持った専門家によって複数の分析法を組み合わせておこなわれてきた。産総研は、誰でも簡単に微量の試料で分析できるように、質量分析計のみで判別できる迅速解析システムの開発を目指した。原理は多数の糖鎖標品の多段階タンデム質量分析スペクトルパターンをデータベース化しておき、その中から分析対象のスペクトルに合致するものを探すというものである。初段の断片化段階では一つの糖鎖からいくつかの断片イオンが生成する。構造に特徴的な断片化パターンを示すのは、その内の一部であるため、迅速に分析するためには、2段階目以降の断片化に供する断片イオンを適切に選択する必要がある。そこで、構造解析に重要な情報を与えるであろう断片イオンを自動的に選択させるシステムを開発し、インテリジェント測定法と名づけた。今回開発した糖鎖微量迅速解析システムを用いると、2回のタンデム質量分析スペクトル測定によって枝分れや立体異性を含めた糖鎖の構造を知ることができる。
また、データベース構築には構造の判明した多種類の糖鎖標準品が必須である。多数の糖鎖標準品を得るために、産総研は「糖鎖合成関連遺伝子ライブラリーの構築」プロジェクトで得られた糖鎖遺伝子から、160種類以上の糖鎖合成酵素を作製し、これを利用して糖鎖標準品を合成した。さらに、さまざまな糖鎖を一度に短時間で合成するために、エンザイムキュー合成法と呼ぶ糖鎖ライブラリ合成法を考案した。この方法では、各反応を途中で停止させてから次の反応を行なう。したがって、反応をn回繰り返すと理論上は2のn乗の混合物が得られることになる。得られる糖鎖ライブラリの各成分の分子量がすべて異なるように合成用酵素を選択しておけば、分子量と糖鎖構造は1対1に対応させることができるため、分子量を測定するだけでライブラリに含まれている糖鎖構造を知ることができ、分子量で分割すれば1種類の糖鎖だけが得られる。
糖鎖の構造解析と合成に関する基盤技術を確立することができた。今後は、これらの技術をさらに改良するとともに、核酸や蛋白質だけでは説明できなかった様々な生命現象を解く鍵である糖鎖の機能解明に応用していきたい。特に、糖鎖が関わる重要な生命現象である免疫、癌、感染症、再生医療などにおける糖鎖の役割の解明、ひいてはそれらに関連する病気の早期診断、予後判断、新薬ターゲットの同定などにつながっていくことを期待している。