ナノ空間に閉じこめられた水分子の挙動は、ナノテクノロジー、ナノバイオテクノロジーにおいて極めて重要な課題であるにもかかわらず、これまでほとんど解明されていない。
独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)ナノテクノロジー研究部門【部門長 横山 浩】の 片浦 弘道 主任研究員と、東京都立大学【総長 茂木 俊彦】(以下「都立大」という)大学院 理学研究科 真庭 豊 助教授(産総研 客員研究員、独立行政法人 科学技術振興機構(以下「JST」という)CREST)らは、単層カーボンナノチューブ(SWCNT:Single-Walled Carbon Nanotube)内に吸着した水の構造を、大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構(以下「KEK」という)放射光科学研究施設(フォトンファクトリー(PF))におけるX線回折実験により明らかにした。SWCNT内部の水は、低温で筒状の氷(アイスナノチューブ:以下Ice-NT)を形成し、その融点がSWCNTの直径すなわちIce-NTの直径に依存して大きく変化することを見出した。特に、直径1.17 nm(1ナノメートル:10億分の1メートル)のSWCNT内に成長するIce-NTは5個の水分子が環状に配列したものが積み重なって筒構造をとり、その融点は27℃であることを発見した。これまで室温の氷は、1万気圧程度の高圧では得られていたが、大気圧以下での室温の氷の観測は世界初であり、ナノ空間に閉じこめられた水分子の挙動に、新たな知見が得られたことになる。また、SWCNTの直径が細いほど氷の融点が高いという、既知の法則(ガラス管等の細管中の氷の融点は細管の直径が細くなるに従って低くなる)とは反対の関係を見出した。この現象は、水分子が作る環状クラスターの安定性と深い関係があると推察されるが、今後のより詳細な実験により、これら水分子の挙動の解明が期待される。
さらに、減圧中で温度を45℃まで上げると、SWCNT内の水は一気に気化し、SWCNTから噴出することがわかった。これはナノジェット機構として、次世代インクジェット等への応用が考えられる。
本研究成果は、Chemical Physics Letters 401 (2005) pp. 533-537.に「Ordered water inside carbon nanotubes: Formation of pentagonal to octagonal ice-nanotubes」のタイトルで掲載予定である。
本研究の一部は、独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構【理事長 牧野 力】(以下「NEDO技術開発機構」という)の平成15年度 産業技術研究助成事業「非線形光学素子用カーボンナノチューブ素材の開発」の補助により行われた。
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図:SWCNT内に成長した室温Ice-NTの模型。
5個の水分子がリングを形成し、積み重なってチューブとなっている。
赤が酸素(O)、青が水素(H)、グレーが炭素(C)原子を表す。 |
地球は「水の惑星」であり、あらゆるところに水が存在し、大気中におかれた物体の表面には、多数の水分子が吸着している。塵一つ無いクリーンルームの中でさえ水分子は存在し、ナノメートルサイズに加工されたデバイス表面も、水分子で覆われている。生体の細胞内、分子レベルの反応も、常に水分子に囲まれた状態である。ナノ空間に閉じこめられた水分子の挙動は、ナノテクノロジー、ナノバイオテクノロジーにおいて極めて重要な、早急に解明しなければならない課題の一つである。しかし、微細空間内の水の挙動を調べる手段は限られているため、多くの研究では計算機を用いたシミュレーション実験が先行し、実験的にはこれまでほとんど解明されていなかった。例えば、ガラス管等の細管中の氷の融点は細管の直径が細くなるに従って低くなることが知られているが、ナノメートルスケールでは報告がない。SWCNTは内部に1ナノメートル程度の空間を持ち、そこに分子を挿入することが可能である。この空間に閉じこめられた水分子はクラスター形成に制限を受けていると考えられ、その挙動を調べることは、上記の理由から極めて重要である。
SWCNT内にIce-NTが生成されることは、福岡教育大学教育学部の 甲賀 研一郎 助教授(現:岡山大学理学部化学科助教授)、岡山大学理学部化学科の 田中 秀樹 教授らによる計算機シミュレーションにより、2001年に、高圧力をかけた条件で予測されていた。その最初の実験的証拠は、2002年に、都立大・JSTの 真庭 豊 助教授、片浦 弘道 助手(現:産総研ナノテクノロジー研究部門主任研究員)らによる精密X線構造解析により、1気圧以下の圧力、-38℃以下の温度で見出されていた。一方、産総研では、平成15年度NEDO技術開発機構の産業技術研究助成事業の補助のもと、非線形光学素子用にSWCNTの精密直径制御と分子内包技術の開発を行っている。今回この成果を応用し、6種類の直径の異なる高純度SWCNTを準備することにより、Ice-NTの生成と構造がSWCNTの直径にどのように依存するかを詳細に調べた。
水分子は軽元素である水素、酸素から構成されているため、ナノ空間内の水分子を電子顕微鏡により直接観測することは困難であり、観察手法には制限がある。しかし、都立大・JSTは、高純度の直径制御されたSWCNTの束(バンドルまたはロープと呼ばれる)からなるフィルム状試料を用いれば、放射光を用いた精度の高いX線回折実験によって、SWCNT内の分子配列を詳細に調べることが可能であることを見出した。今回、産総研のSWCNT合成技術と、都立大・JSTの精密構造解析技術を融合し、SWCNT内の水の長距離秩序の形成過程の系統的な実験的研究に初めて成功した。
X線回折実験は、KEKの放射光科学研究施設PF内に設置されている実験ステーションBL1Bにおいて、90K(-183℃)から360K(87℃)の温度範囲において行った。平均直径が1.17nmから1.44nmの6種類の高純度SWCNT試料を準備し、穴あけ処理を行った後、飽和蒸気の水とともにX線回折実験用のガラス管に封入を行った。まず、室温から温度を上げると、45℃付近でSWCNT内に吸蔵された水が急激に気化することが観察された。また、気化する温度はSWCNTの直径によりわずかに変化した。水を含有するSWCNTからの水の蒸発は、熱重量測定などでも全体として観測することができるが、ここでは、SWCNT内部に吸着した水分子のみを選択的に観測している点が大きく異なる。
次に、温度を下げると、水の分子が規則的に配列したことを示す新しいX線回折のピークが出現した【図1参照】。X線回折パターンの詳細な解析から、その構造は、水分子がつくる環状構造のユニットが積み重なってできるIce-NTであることが明らかになった。Ice-NTの構造は、SWCNTの直径が細くなるにつれて、8員環Ice-NTから5員環Ice-NTへと段階的に細くなり、凍る温度も190K(-83℃)から300K(27℃)へ上昇した【図1、2参照】。上述の通り、一般にガラス管等の細管中では直径が細くなるほど融点は下がることから、8員環Ice-NTの融点が-83℃と、通常の氷に比べて非常に低いのは、経験則上理解できる。問題なのは、8員環から5員環と直径が細くなるに従って、融点が上昇するという、経験則とは全く反対の傾向である。特に、1気圧以下の圧力であるにもかかわらず、5員環Ice-NTが示す27℃という非常に高い融点は、これまでに観測例が無いもので、ナノ空間に閉じこめられた水分子特有の現象であると考えられる。これら、水分子のこれまでの経験則に当てはまらない振る舞いは、水分子が作る環状クラスターの安定性と深い関係があると推察しており、今後のより詳細な実験により、水分子の挙動の解明につながるものと期待される。
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図1:水分子が規則的に配列したことを示すX線回折ピーク強度の温度変化。4種類の異なった融点(矢印が融点)を持つ氷があることがわかる。直径1.17 nmのSWCNTの場合には、300Kから強度が立ち上がっており、このSWCNT内のIce-NTの融点が300K(27℃)であることがわかる。
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図2:左からそれぞれ、5員環(直径0.476 nm、融点27℃)、6員環(直径0.56 nm、融点7℃)、7員環(直径0.645 nm、融点-53℃)、8員環(直径0.732 nm、融点-83℃)Ice-NTの模型。赤が酸素、青が水素原子を表す。 |
SWCNTを加熱した際に、45℃付近で急激に気化して水が噴出する現象が観測されたが、これは、ナノジェットとして応用が期待される。SWCNTの熱容量は非常に小さいため、光照射等により加熱することが可能である。構造の異なるSWCNTは、異なった波長の光を吸収する性質があるため、単色のレーザー光を照射することにより、光の波長で選択して特定の構造のSWCNTのみ加熱することができる。この原理を用いれば、光を一本のSWCNTに絞り込む事なしに、ナノメートルスケールでの制御が可能になる。この機構は、ナノメートルサイズのインクジェットやナノ物質を動かす原動力として利用できる【図3参照】。
図3:右図は、SWCNT束に単色光を照射して水分子を噴出させた様子の模式図である。SWCNTの構造の違いによる光の吸収波長の違いは、目に見えない赤外線の領域であるが、ここではそれを色の違いとして表現してある。照射した光(紫)を吸収するSWCNTのみから水分子が吹き出している様子を表している。 |
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Ice-NTの生成機構やその電気的性質などを明らかにする。また、中空構造や水の誘電体としての性質を利用したデバイス応用などの研究を行う予定である。