独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)光技術研究部門【部門長 渡辺 正信】光電子制御グループ 菅谷 武芳 主任研究員は、素子内の電子通路が原子レベルで平坦なナノ細線構造を用いて、極めて明瞭な負性抵抗【図1参照】を示す全く新しい速度変調ナノトランジスタの開発に成功した。ノーベル賞受賞の対象ともなった江崎ダイオードで知られる負性抵抗素子は、数100GHzの超高周波を発振できるため、今日でも、高性能のガンダイオードや共鳴トンネルダイオードの開発が世界中で進められている。しかし、これまでの負性抵抗素子は2端子のダイオード構造が主であり、集積化に有利な3端子のものはほとんどなかった。今回開発に成功した負性抵抗素子は3端子構造で、ダイオードと違って負性抵抗を自由・自在に制御できる。これは素子内の電子の通路を原子レベルの平坦性で加工する技術を確立したことにより得られた成果であり、電子の通路であるナノ細線中のサブバンド間を電子が遷移する現象を利用し、外部電圧の変化で電子が高移動度の基底レベルから低移動度の高次サブバンドレベルに移ることによって負性抵抗を発現するものである。
今回開発した素子は、通常の電界効果トランジスタと同じ製作プロセスが使えるため集積化に適しており、これによって超高周波(数100GHz)発振素子を搭載した本格的な化合物半導体集積回路を実現できる目処が立ったといえる。
また、テラヘルツ帯(100GHz~10THz)の超高周波の電磁波は、光と電波の中間領域に属し、その発生技術及び検出技術が未開拓な周波数帯であり、半導体素子やICカード、郵便物等の非破壊検査や、生体への安全性からX線に変わる医学分野への応用など、幅広い分野でその応用が期待されている。しかし、現在小型で安価なテラヘルツ電磁波発生源がなく、その実現が望まれている。
今後は、今回開発した素子についてさらに検討を加えることで、これらテラヘルツ分野への応用を可能としていく考えである。
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図1 負性抵抗ナノトランジスタの電流・電圧特性の比較
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テラヘルツ電磁波と呼ばれる100GHzから10THz(波長30µm~3mm)の周波数領域は、光と電波の中間領域に属し、その発生技術及び検出技術が未開拓な周波数帯である。光では不透過なため測定できない半導体素子やセラミック材料の測定が可能であり、また生体に安全であるためX線に変わる医学分野への応用など、幅広い分野でその応用が期待されている。現在は、半導体素子のパッケージ後の非破壊検査やプロッピーディスク、ICカードの検査などに利用されており、X線に代わる癌の早期発見や虫歯の診断などにも応用されている。また最近では、郵便物内にある麻薬など有害薬物の同定が、郵便物を開封せずに可能であることもわかってきており、その応用範囲は多岐にわたる。しかし既存の測定系やシステムにおいては大型で高価格となる大出力レーザが必要であり、テラヘルツを応用したシステムの普及には支障が多い。
高周波の発振・増幅などに用いられる負性抵抗素子は、唯一単体で高周波を発振させることができるため、ノーベル賞受賞対象となった江崎ダイオードに代表されるように世界中で研究されている素子である。
負性抵抗素子としては、ガン効果を利用したガンダイオードがよく知られているが、その発振周波数は最大で100GHz程度にとどまっている。また、速度変調トランジスタは、電子が行き来できる高移動度と低移動度のチャネルを近接して作製し、その移動度の違いによって負性抵抗を発現させるという素子である。速度変調トランジスタの提案以来、量子井戸のダブルチャネル(高移動度と低移動度の二つのチャネル)を使った負性抵抗素子の作製が試みられているが、低移動度のチャネルに電子を完全に遷移することが難しく、結果としてピーク/バレイ比が小さい、負性抵抗発現電圧が大きいなどの問題点があり、実用化には至っていない。また、負性抵抗を発現する素子としては共鳴トンネルダイオードがあり、ピーク/バレイ比も大きく、700GHzを超える超高速の発振動作などが報告されている。
今回産総研で開発した負性抵抗素子も、サブバンド間遷移という超高速現象を利用しているため、テラヘルツ帯での発振の可能性を持つ。また、この素子は3端子構造であり、素子製作プロセスも通常のトランジスタと同様に簡単であるため、集積化に適し、テラヘルツ発振素子を搭載した集積回路への応用が可能である。このような小型で安価なテラヘルツ発振素子が実現できれば、システム全体の大幅なコストダウンが可能となり、上記のような様々な分野での応用が期待される。
負性抵抗素子の超高速論理素子への応用という点では、共鳴トンネルダイオードは2端子構造であるため増幅効果が見込めず、集積化にも適さない。そのため、第3の外部電極を付加し、トランジスタ構造とすることによって負性抵抗を制御する試みが多数なされてきた。例えばトランジスタと共鳴トンネルダイオードを組み合わせた超高速論理回路では、回路の素子数を大幅に低減した例が報告されているが、その作成工程の複雑さから実用化には至っていない。これに対し、今回開発した負性抵抗素子は3端子構造であり、素子自体が制御電極を持っている。従ってトランジスタと共鳴トンネルダイオード双方の特性を持っているため、さらなる素子数の低減化や、回路作製の簡素化が期待できる。
産総研は、従来から、新しい光・電子素子システム実現のため量子効果を利用した新しい光・電子素子の開発を行ってきた。特に平成11年より、本研究で用いた産総研独自の高品質ナノ細線構造の作製に着手し、今回新しい動作原理に基づく負性抵抗ナノトランジスタの開発に成功した。本素子は、集積化可能なテラヘルツ帯超高周波発振トランジスタの基礎素子として大変興味深い。
なお、本研究の一部は独立行政法人 科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業(チーム型研究)の支援を受けて行われた。
産総研はこれまで、原子状水素を添加した分子線エピタキシー装置による選択成長法を用いて、高品質なInGaAsナノ細線構造(幅25nm、厚さ10nm:1nmは百万分の1mm)を作製することに成功していた。【図2】は本素子で用いたInGaAsナノ細線構造の断面透過電子顕微鏡写真である。図の中心部に見える黒い部分がナノ細線構造で、電気は紙面に垂直の方向に流れる。これまで、非常に細く小さなナノ細線構造を作製すると、その境界面での凹凸が電子の運動の妨げとなり、高品質で高移動度なナノ構造が作製できないという問題があったが、これを独自の分子線エピタキシー技術を用いて解決し、高品質なナノ細線構造の作製を可能にした。
電気的・光学的に非常に優れたナノ細線構造を利用し、それをチャネルとするトランジスタ構造を作製したところ【図3参照】、 【図1】に示すような低電圧(0.17V)、高ピーク/バレイ比(13.3)で顕著な負性抵抗を示す素子が得られた。また、ピーク/バレイ比では、参考のため示した3端子構造の従来素子に比べて、約4倍の特性を実現している。一般に知られる負性抵抗効果が発現する要因としては、加速された電子の低移動度障壁層への実空間遷移やガン効果があり得る。しかし本素子では負性抵抗発生時にゲートリーク電流が認められないため障壁層への移動ではなく、発現電圧が低いためガン効果でも説明できない。またその構造より共鳴トンネル効果によるものでもない。
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図2 ナノ細線構造の断面透過電子顕微鏡写真 |
図3 今回開発した負性抵抗ナノトランジスタの模式図 |
本研究におけるInGaAsナノ細線構造の基底レベル、高次サブバンドレベルの電子分布を【図4(a),(b)】に示す。図の縦軸、横軸は図2の断面写真の空間座標に相当し、ナノ構造中の青で示した部分に特に電子が分布している。基底レベルの電子はナノ構造中の底に分布し、この部分は高品質であり電子移動度が高い。ドレイン電圧が低い場合、電子はエネルギー的に安定なこの部分に分布している。一方高次サブバンドの電子分布はナノ構造の側面に主に分布しているのがわかる。側面の部分は2nmの量子井戸から成っており、その厚さが非常に薄いため、電子移動度が極めて低い。基底レベルとのエネルギー差は約0.2eVであり、ナノ細線中の電子がドレイン電圧によってそのエネルギーを得ると、低移動度の高次サブバンド領域に遷移することができる。移動度が低いため電流は流れにくく、結果として負性抵抗が発現するものと考えられる。その様子を模式的に示したのが【図4(c)】である。負性抵抗発現電圧以上のドレイン電圧では、電子が高次サブバンドに遷移し、その移動度差により負性抵抗を発現する。
サブバンド間遷移はピコ秒程度(1ピコ秒は1兆分の1秒)の超高速で動作することが知られており、素子のピーク/バレイ比も大きく負性抵抗の傾きも大きいことから、今回開発した素子はテラヘルツの発振素子として応用可能であり、3端子素子であるため集積化にも適する。またサブバンド間遷移による負性抵抗の実現は世界で初めてであり、応用的・物理的にも興味深い。
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図4 ナノ細線構造の(a)基底レベル、(b)高次サブバンドレベルの電子分布。青で示した部分に電子が主に分布することを示している。高次サブバンドレベルでは厚さが薄く電子の移動度が小さい斜面部分に電子が分布する。
(c)負性抵抗メカニズム。負性抵抗発現電圧以下のドレイン電圧では電子は基底レベルに存在し、それ以上になると高次サブバンドレベルに存在できるようになる。その移動度の差によって負性抵抗が発現する。
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今回開発した負性抵抗ナノトランジスタでは、負性抵抗現象は260Kまで観察されている。今後は、さらに検討を加え素子構造を最適化することで室温での可動化を目指していく。
本素子が実用化されることにより、集積回路に搭載された小型で安価なテラヘルツ発振素子として、将来は半導体素子やセラミック材料などのイメージング、郵便物などの非破壊検査や医学分野への応用など幅広い分野への応用が期待され、化合物半導体素子の新たな可能性の道を拓く。