独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)ナノテクノロジー研究部門【部門長 横山 浩】の田中 寿研究員と徳本 圓研究グループ長は、国立大学法人 東京大学大学院【総長 佐々木 毅】理学系研究科【研究科長 岡村 定矩】(以下「東大院理」という)の小林 昭子教授、大学共同利用機関法人 自然科学研究機構【機構長 志村 令郎】分子科学研究所【所長 中村 宏樹】(以下「分子研」という)の小林 速男教授、産総研計算科学研究部門【部門長 池庄司 民夫】の石橋 章司研究グループ長、米国フロリダ州立大学のJames S. Brooks教授らと、単一分子性金属の磁気量子振動によるフェルミ面の観測に成功し、世界で初めて一種類の分子からなる結晶の金属性を証明した。
分子性伝導体開発において、不可能とされてきた長年の課題にひとつの解が提示されたことにより、化学的に分子設計や合成が可能な分子物性開発の今後の展開の可能性を示した。
本研究は、産総研が独立行政法人 科学技術振興機構【理事長 沖村 憲樹】の戦略的研究推進事業、科学技術振興調整費(若手任期付研究員支援)、文部科学省科学研究費補助金(特定領域研究)等の協力・支援を受け、東大院理、分子研などの協力を得て行ったものである。
この成果は、米国化学会発行の専門誌Journal of the American Chemical Society誌9月1日号に掲載された。
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図1 単独で集積(結晶化)し、金属性を示した分子(左)とその結晶のフェルミ面(右)
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ナフタレンやプラスチックのような、分子でつくられた有機物質に電気を流すことは出来ないか?このような研究はすでに1950年代に芳香族炭化水素へのハロゲン添加により始まり、1970年代には初の一次元有機分子性金属、1980年代には初の有機超伝導体が報告されてきた。また1970年代後半には導電性高分子も発見され、有機物や有機分子性結晶には電気は流れないというそれまでの常識は覆された。現在では従来の元素金属に置き換わり、身の回りの多くの物に導電性高分子が使用されている。しかしこのような物質開発の進展にもかかわらず、表題の「一種類の分子からなる結晶の金属性」は長年の間実現できていなかった。
従来、典型的な絶縁体である有機化合物に電気を流すキャリアを生成するためには、ドーピング(電荷移動ともいう)という手法が行われてきており、いわゆる導電性高分子はその代表的な例である。ドーピングによって電気を流す半導体は簡単に実現できるが、それをさらに進めて金属にすることはそれほど容易ではない。例えば、有機超伝導体などのように二種類の分子またはイオン(D, A)からなる分子性伝導体結晶中では、分子(イオン)Dから分子(イオン)Aに電荷の一部を移す(電荷移動もしくは部分酸化を行う)ことによって、金属性を実現している。
このように分子性伝導体において伝導キャリアを生成するためには、二種以上の分子からなる結晶であることが必要であると考えられてきた。それでは単一種の分子のみが集まって出来た単一分子性結晶で金属を実現することは不可能なのであろうか?この不可能を可能にすることは長い間化学者が追い続けてきた夢であった。
近年、小林 昭子教授(東大院理)および小林 速男教授(分子研)らは、単一分子が自己集積して金属結晶を生ずる可能性を検討し、単一分子性金属を実現するために、次のような分子設計指針を提唱した。1)バンド幅を広げ、金属状態を安定化するためコンパクトな分子配列を実現すること、2)十分にHOMO-LUMOギャップが小さく、結晶化した際にHOMO、LUMO起源のバンドが重なりを持つことである。特に2)については、金属の両側にジチオレン配位子が配位した分子(図2)のHOMOとLUMOが中心金属Mに対して異なる対称性を持ち、HOMOとLUMOに対して中心金属Mの軌道の寄与は小さいことに注目した。これは大まかに言えばHOMO-LUMOギャップは左右の配位子の電子の波動関数の重なり積分(つまり金属に配位するジチオレン配位子のHOMOの重なり)に比例するので、配位子の共役系が広がって上記の軌道の重なりが相対的に減少すれば、小さなHOMO-LUMOギャップの分子が実現できると考えた。
以上の条件をふまえて、小林らによって設計・合成された[Ni(tmdt)2]という金属錯体分子(図1)は、配位子部にTTF骨格を持つきわめて平面性が高い分子であり、その結晶(図3a)は電気的に中性な一種類の分子からなるにもかかわらず室温で非常に小さな電気抵抗率(0.0025 Ωcm = 400 S/cm)を示し、極低温(0.6 K)まで安定な金属的電気伝導性を示した(H. Tanaka, Y. Okano, H. Kobayashi, W. Suzuki, A. Kobayashi: Science 2001, 291, 285)。
この発表は通常条件(常圧)下での単一分子性金属の実現として、多くの研究者から注目を集め多数の論文に引用された。しかし一方でその電子構造やキャリア生成機構、伝導機構などの解明は必ずしも十分でないと考えられ、その金属性のより厳密な証明、つまりフェルミ面の存在を示す明瞭な実験的証拠が要請されていた。
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図2 二つの配位子の軌道の弱い相互作用による小さなHOMO-LUMOギャップの形成と、結晶化晶化によって広がった上下のバンドの重なりによるキャリアの生成
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分子構造図上の○、●は軌道の広がりを模式的に示している。また図中右側の2つの四角はHOMOとLUMOから生じたエネルギーバンドを示しており、グレー部分に電子が詰まっている。つまりこの図ではHOMOバンドの大部分とLUMOバンドの一部に電子が詰まっており、両バンド内に電子の分布の境界面(フェルミ面)がある。 |
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図3 [Ni(tmdt)2]の結晶構造(a)、バンド構造(b)、(b)を図2の右図形式に表現したもの(c)
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(b) バンド構造図の横軸のX、Γ、Yなどは波数空間内での位置を表し、縦軸はその位置でのエネルギーを表す。充満帯を青、伝導帯を赤で示してある。電子はフェルミ準位(点線、(c) においてはグレーの領域の上端)まで詰まっており、価電子バンドの上方と伝導電子バンドの下方がフェルミ準位と交わっている。 |
産総研 ナノテクノロジー部門分子ナノ物性グループの徳本研究グループ長は、米国フロリダ州立大のBrooks教授と、日米科学技術協力協定のもとで1989年以来長年にわたり、有機超伝導体の磁気量子振動の観測によるフェルミ面の研究など、米国国立高磁場実験施設(National High Magnetic Field Laboratory)を用い、協力して研究を進めてきた実績がある。
本研究課題、すなわち単一分子性結晶の金属性を直接証明するフェルミ面を観測する実験は、2002年4月、田中研究員が分子研 小林グループから、産総研 ナノテクノロジー研究部門分子ナノ物性グループに移籍したことにより、本格的に開始された。
金属の最も厳密な定義はフェルミ面(フェルミ準位)が存在することであり、それを観測する代表的な実験手段の一つに、磁気量子振動がある。例えば、磁場の増加に伴って磁化が周期的に変化する磁気量子振動はドハース・ファンアルフェン効果と呼ばれるが、この振動の存在はフェルミ面の存在を示す直接的な証拠であり、振動周期やその磁場方向に対する角度依存性を解析することでそのフェルミ面の断面積の大きさや形状を知ることが出来る。
このため、産総研、東大院理、分子研、フロリダ州立大のグループは [Ni(tmdt)2]の金属性の証明として、磁気量子振動によるフェルミ面の観測を試みた。得られる単結晶試料が非常に微小(本測定に用いた結晶は130x100x20µm, 重さ0.5µg)であるため、通常の手法よりも高感度な測定法として市販のAFM(原子間力顕微鏡)用のマイクロカンチレバー(SII社製自己検知型マイクロカンチレバー)(図4a)を磁気トルク測定に転用した手法(E. Ohmichi, T. Osada: Rev. Sci. Instrum. 2002, 73, 3022)を用いた。
実験は米国フロリダ州タラハシの国立高磁場実験施設で、定常磁場として世界最高の45テスラを発生できるハイブリッド型マグネットを用いて行った。その結果、フェルミ面の存在を示す磁気量子振動(ドハース・ファンアルフェン効果)の観測に世界で初めて成功した(図4b)。また磁場の方向によって大きく変化する振動成分の角度依存性を詳細に測定した結果は、第一原理計算から得られたフェルミ面の形状でよく説明できる。そのフェルミ面を図5に示す。
以上の結果から、この物質が三次元的な金属であることが判った。この三次元的金属という特性は構成分子が一種類であることの特長の一つであり、従来の分子性伝導体が圧倒的に一次元・二次元的な物質であるのと異なる点である。
単一分子性金属は、電気的に中性な分子の集合体である。分子間には共有結合のような強い結合はないが、通常のファン・デル・ワールス結晶と異なり、金属結合の寄与により分子間の原子接触距離がファン・デル・ワールス結合よりかなり短くなっている。その金属性の起源は、ごく小さなHOMO-LUMOギャップを持つ分子が図3aのように稠密に積層して結晶化することで十分広い伝導バンドを形成するためと考えている。
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図4 試料を固定したAFM用マイクロカンチレバー(a)と観測された磁気量子振動(b)磁場中で試料を(a)の下図の向きに回転させたところ、(b)のように振動に明瞭な角度依存性が観測された。
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図5 実験と計算に基づいて求められたフェルミ面赤と青の閉曲面がそれぞれ電子とホールのフェルミ面に対応し、この物質が三次元的な金属であることを示している。
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単一種の元素からなる金属がすでに世の中に存在する中で、単一種の分子からなる分子性金属の実現がなされた意義はどこにあるのだろう? 通常の元素金属の構成単位が原子であるのに対して、分子性伝導体の最小構成単位は分子である。地球上に存在する元素の種類は百を超える程度であるが、分子は比較的自由に化学的に設計・合成することが可能である点が特長であり、その種類は無限といえる。この無限種の分子を材料として物性開発を行うのが分子物性開発であるが、一方元素金属では実現できても、分子性結晶では実現できていない物性も依然として多い。本物質の単一分子性金属もその一つであったが、その従来不可能と思われていたものを、ある種の金属錯体分子を設計・合成することで実現したものである。そして本研究によりその金属性が実証されたことは、物質自体への興味もさることながら、分子物性開発の特長を再認識させたという点においても意義深い。
また、単一分子性金属の将来的な可能性としては、例えば有機溶媒に可溶という機能を持たせた単一分子性金属が合成できれば、その溶液で基板上にパターンを描き、溶媒を乾かすだけで導電性のパターンが完成する。これは、分子エレクトロニクス分野において現在最も必要とされている分子サイズの電子デバイスをつなぐ分子配線を実現できることを意味しており、このような従来の元素金属にはない機能を持たせた物質の開発は、分子物性開発の一つの目標であると同時に、将来新たな物質群として開花する研究分野への一里塚でもある。