照射光の波長成分が大きく変化しても、ヒトは物体の色を正しく認識できる。たとえば、晴れた日の日中、真っ赤な夕焼けのとき、あるいは蛍光灯の光で照明されているとき、物体から眼に入る光の波長成分は大きく変化している。それでも、リンゴは赤くバナナは黄色に見える。この「色の恒常性」は、眼に入射する光の波長そのものには「色彩」情報が欠けていることを示している。
眼に入る光の性質が大きく変化しても、対象物の「色」は変化せず同じように知覚されるのは、「色」が網膜から大脳皮質に至る神経結合の連鎖によって創り出されるからである。「色」を生み出す神経系の働き(色彩感覚)は、生得的なもの(生まれながら備わっている)と考えられてきたが、実際の神経回路網の構造と働きは未だ明らかになっていなかった。
独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)脳神経情報研究部門【部門長 岡本 治正】認知行動科学研究グループの杉田 陽一研究グループ長は、生まれて間もないサルを1年間単色光照明だけで飼育した後に、サルの色彩感覚を詳しく検討することにより、これまで生得的なものと考えられてきた「色彩感覚」が、経験によって獲得されるものであることを明らかにした。
本研究は、独立行政法人 科学技術振興機構【理事長 沖村 憲樹】(以下「JST」という)から産総研が委託を受けて行ったものである。
実験では、単色光照明で育ったサルは、見本の色と同じ色の対象物を選ぶという見本合わせの課題では、長い訓練によって正常なサルと同じ成績が得られるようになったが、見本の色によく似た対象物を選ぶという類似性判断の課題では、正常なサルとは極めて異なった結果が得られた。これは、単色光照明で育ったサルが、正常なサルとは異質な方法で色を分類していることを示している。
さらに、いくつかの色の中から一つの色を選択するという課題の結果は、照明条件によって大きく変化し、これらのサルに「色の恒常性」が備わっていないことが明らかになった。これは、「色彩感覚」が生得的なものではなく、経験によって獲得されるということを示すものである。
今後、これら色覚障害のサルの神経活動を丹念に調べることによって、「色の恒常性」を実現している神経回路網の構造と働きを明らかにすることが可能である。これらの知見は、照明条件に左右されない映像技術・画像処理技術の開発に大きく寄与するとともに、正常な色彩感覚が発達するのに必要な環境条件の設定に科学的な根拠を与えるものと期待される。
本研究成果は、自然科学系雑誌カレント・バイオロジー(2004年7月27日号)に掲載される。
今回、色彩感覚の機能を獲得する過程を解明するため、視覚に関するサルの行動実験を行い、次のような結果を得た。
自然の光(太陽光)や一般の照明光(蛍光灯や白熱灯など)は、眼に見える全ての波長成分を含んでいる。しかし、単一の波長成分しか含まない単色光で照明されると、光の強さの濃淡しか検出できず、物体の「色」を検出することは不可能となる【写真参照】。
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(A):通常の照明条件下の写真。(B):長波長(赤)、(C):中波長(緑)、(D):短波長(青)の光照明のイメージ写真。単色光で照明されると、(E):白黒写真と同じように、サルの体の色、赤い首輪、タオルの模様の色あるいは人形の色は全く識別できない。
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生まれて間もないサルを、1年間、単色光の照明だけで飼育し、色を認識できないようにして育てた。このとき、網膜にある3種類の色受容細胞(錘状体)を全て賦活(活性化)できるように、単色光の波長を1分間毎に赤・緑・青・青紫に変化させた。その後、これらのサルの色彩感覚を検査したところ、色の類似性判断と恒常性に障害があることが明らかになった。
赤・青・緑に色分けされたカードを用い、見本の色に似ている色を選ばせる課題を行うと、ヒトや正常に育ったサルは、「赤に近い色」、「緑に近い色」と「青に近い色」の3種に色を分類している。しかし、単色光の照明により色を見せずに育てたサルは、課題に対し正しいカードを選べず、このような分類を行っていないことが明らかになった。
また、赤のカードが呈示されたときには、赤のカードを選択し、それ以外の色のカードが呈示されたときには黒のカードを選択するように訓練した後に、20種類のマンセル色に対して、どのように反応するかの課題を行った。白色光照明でテストを行うと、色を見せずに育てたサルも赤に似た色のカードを選択し、正常サルと変わらない結果が得られた【図の中段、C~F参照】。ところが、色付きフィルターにより照明光の波長成分を変化させると、赤のカードを選択せずに異なったカードを選択してしまうなど、物体の色の判断も大きく変化した【図の下段、G~J参照】。
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(A):モンドリアン図形(幾何学的な抽象図形)に埋め込んだ赤と黒の正方形。(B):実験に用いた20種類のマンセル色。各々の色は黒色と対にして呈示した。赤(5R)の正方形があるときには赤の正方形、無いときには黒の正方形に触れると、報酬(グレープジュース)を得ることができる。(C)-(F):太陽光に近似した波長成分で照明したときの結果。若干の反応般化がみられる。(G)-(J):長波長成分を増やして照明したときの結果。色を見せずに育てたサルは、赤(5R)ではなく黄(5Y)を選択した。なお、実験は20種類の色紙に対してそれぞれ10回ずつ行った。反応の回数は円の直径で示しており、たとえば、赤(5R)を10回中10回とも触れると、大きな円が(5R)の位置に描かれる。一度も触れることがなかった色の位置は空欄になっている。
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以上のような色彩感覚の障害は、その後の視覚経験あるいは訓練によっても矯正されることがなかった。これらの事実は、乳幼児期の視覚体験が、色彩感覚の発達に決定的な影響を与えることを示している。
本研究成果は、JSTの戦略的創造研究推進事業(公募型・チーム型研究)の研究領域「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」(研究総括 津本 忠治 大阪大学)において、産総研がJSTより委託を受け、幼児期の学習の性質及びその重要性の神経学的基盤の解明を目指し、平成15~20年度の期間で進めている研究課題「幼児脳の発達過程における学習の性質とその重要性の解明」(研究代表者 杉田 陽一 産総研)によるものである。
本研究によって、「色彩感覚」が生得的なものではなく経験によって獲得されるものであることが明らかになった。これら色覚障害のサルの神経活動を丹念に調べることによって、「色の恒常性」を実現している神経回路網の構造と働きを明らかにすることが可能である。これらの知見は、正常な色彩感覚が発達するのに必要な環境条件の設定に科学的な根拠を与えるとともに、照明条件に左右されない映像技術・画像処理技術の開発に大きく寄与するものと期待される。