発表・掲載日:2003/03/27

世界初、手術手技を実施可能にした「精密ヒト鼻腔モデル」を開発

-献体を使わずに本格的な内視鏡下鼻内手術手技トレーニングが可能に-

ポイント

  • 内視鏡下鼻内手術手技のトレーニングが可能な「精密ヒト鼻腔モデル」の試作に成功【世界初】
  • 内視鏡下鼻内手術は、副鼻腔が複雑な構造であることや、トレーニングの対象(献体)が希少なため、他部位に比べて普及していない
  • 実物に近い手応えを与える材料/構造を開発、献体に近いレベルでのトレーニングを可能とした
  • 「切除・開放」の対象となる部位のみを交換可能とすることで低コスト化を実現
  • 内視鏡下鼻内手術の普及と安全性向上に貢献

副鼻腔の図


概要

 独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】 (以下「産総研」という)人間福祉医工学研究部門【部門長 斎田 真也】は、世界で初めて内視鏡下鼻内手術手技のトレーニングが可能な「精密ヒト鼻腔モデル」の試作に成功した。本モデルは、内視鏡による鼻内の観察や、実物に近い手応えを感じながら実際の手術器具(鉗子など)の操作を行えるだけではなく、実際に切ったり、穴を開けるなどの内視鏡下鼻内手術手技(篩骨洞-しこつどう-・上顎洞-じょうがくどう-自然口開放術などの基本的な手術手技)のトレーニングを可能としたリアルな患者モデルである。

 内視鏡下で行なう低侵襲手術は、患者には福音である一方、従来の手術に比べ視野・操作空間とも著しく制約されるため、執刀する医師には、より一層高度な手術技能が要求される。特に、構造が極めて複雑で、しかも薄い骨の壁を隔てて視神経・脳・動脈等の重要臓器に隣接する「 副鼻腔 」を対象とした内視鏡下鼻内手術では、十分な手術手技の研修が必要不可欠である。「 腹腔 」などでは、動物や模型による研修が可能であり、内視鏡下手術も普及しつつある。しかし、副鼻腔については、適切な動物モデルが無く、かつ構造が複雑で模型も作製できなかったことから、そのトレーニングは希少な「献体」に頼らざるをえず、他部位に比べ普及が進んでいないのが現状である。

 今回開発したモデルは、ヒト頭部の CT画像から鼻内の骨格構造を精密に再現し、さらに手術操作において実物に近い手応えを与える材料/構造の開発により、献体に近いレベルでの内視鏡下鼻内手術手技トレーニングを可能とするものである。なお、手術手技により「切除・開放」の対象となる部位のみを交換可能とすることで、研修コストを押さえることにも配慮した。さらに、「手術器具の位置」と「操作時の力」の情報をネットワークを介して送信することができるため、遠隔地にいる熟練者からリアルタイムで指導を受けるような研修も実現可能である。

本モデルを用いることにより、年々希少さを増す献体を用いた研修を補完し、基本的な手術手技の確実な習得を促進することで、内視鏡下鼻内手術の普及とその安全性向上へ貢献できると期待している。

 なお、本モデルは、「第104回日本耳鼻咽喉科学会総会・学術講演会【2003.05.22-24 日本都市センター(千代田区)】」において展示する予定である。また、共同研究先である 株式会社高研【代表取締役社長 宮田 暉夫】 により製品化も予定されている。



研究の背景と経緯

<なぜ産総研で行なう研究か>
産総研人間福祉医工学部門では、医療福祉機器技術研究開発プロジェクト「内視鏡等による低侵襲高度手術支援システム (H12-16年度) 」において、特にヒューマンインタフェースの視点から、低侵襲手術支援技術の研究を行っている。その主要な柱のひとつが手術研修や予行演習の環境整備に関する研究であり、内視鏡下鼻内手術を主な対象として、手術前に十分なトレーニングを行うための手術研修システムおよび物理量に基づく客観的な手術操作スキル評価指標の研究開発を進めている。本件は、その成果のひとつである。

<何故これまで実用化できなかったか>
(1) 副鼻腔の構造は非常に複雑で、従来の型取りによる模型の作製は事実上不可能であった。
(2) 通常、三次元構造が計算機上に形状データとして再構築できれば、光造形に代表されるラピッドプロトタイピング(RP)装置を用いることによりかなり複雑な構造物でも立体として再現することができる。しかし、副鼻腔を構成する骨の壁は非常に薄く(0.1mm~) 、近年大幅に解像度の向上した CT 断層画像 (解像度 0.4mm 程度) でも、その三次元構造の再構成は容易ではない。
(3) RP装置で利用可能な材料の特性は生体組織とは非常に異なるため、RP技術のみで手術操作時の手応えを再現することは困難である。
(4) 仮想現実感(バーチャルリアリティ:VR)技術を用いた手術シミュレーターも盛んに研究開発されているが、臓器に手術操作を加えた時の変形アルゴリズムや、手応えの呈示技術(触覚・力覚呈示技術)は未だ研究途上である。特に篩骨洞開放のような破断現象をリアルタイムで計算・フィードバックすることは現状では不可能である。

<どこに役立つか>
本件を用いてトレーニングを行ない、複雑な鼻腔内部の構造を踏まえた的確な手術操作を習得することで、経験の浅い医師のスキル向上、ひいては低侵襲手術の普及と安全性の向上に貢献する。

精密ヒト鼻腔モデルの写真
左上:精密ヒト鼻腔モデル(一次試作機)全景
右上:上顎洞自然口開放術 (上) メスで切開 (下) 開放後の自然口より上顎洞内部を観察
左下:篩骨洞開放術 (左) ピンセットで前部より侵入開始 (中) 後部を開放中
 

* 本プロジェクトは、通商産業省工業技術院生命工学工業技術研究所(現:産総研)及び新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)【理事長 牧野 力】を実施者として、平成12年度から開始された。その後、工業技術院傘下研究所群の独立行政法人化に伴い、国立研究所実施分が 産総研人間福祉医工学研究部門 に引き継がれている。

研究の内容(開発機器の性能)

<従来との差異>
一般に人体模型は「観察する」ためのもので、表面、内部とも手術操作に伴う破壊を想定した構造にはなっていない。価格も高価であり、実際に手術操作を加えて「切ったり、穴を開けたりする」目的には用いられなかった。本モデルは、手術操作トレーニングを主眼としており、形態のみならず、手術操作時の手応えも再現している。近年、開発が盛んなVR技術を用いた手術シミュレーターと比較しても、低コストでありながら手応えの質・臨場感において優れている。

<特徴>
ヒトCT画像より再構築した本モデルの骨格および粘膜の構造は、内視鏡での観察に耐えうる精密さである。篩骨洞はその内部構造までもが再現されている。このため、実際の手術器具類(鉗子など)をそのまま用いて、実物に近い手応えを感じながら手術操作の研修が可能である。また、手術操作で切除・開放の対象となる部位のみを交換可能な設計としたことで研修の低コスト化が図れる。

<何故可能となったか>
(1) RP技術により、骨格の三次元構造を精密に再現した。
(2) RP技術で造形可能な三次元CADデータを、CT画像および専門医師の協力のもとに解剖学的知見を踏まえて作成した。
(3) 専門医師の官能試験により材料・構造を研究し、RP造形と樹脂膜を複合することで、精密な形状と生体に近い手応えの両立に成功した。
(4) 実体模型であるため、手応えと組織の破断現象をリアルタイムで再現できる。

今後の予定

 現在、「内視鏡等による低侵襲高度手術支援システム (H12-16年度)」プロジェクトで開発中の「手術操作情報(患者に加えた力・内視鏡位置など)の 計測・呈示システム」や、産総研デジタルヒューマン研究ラボ【ラボ長 金出 武雄】で開発中の「患者の反応(痛み、血圧・心拍・発汗など)のモデル」と統合し、より高度な「内視鏡下鼻内手術手技トレーニングシステム」として発展させる予定である。なお、鼻以外の部位への応用についても視野に入れて研究を進めていきたい。



用語の説明

◆内視鏡下鼻内手術
鼻腔から内視鏡や鉗子などの手術器具【写真】を挿入し、内視鏡画像を見ながら行なう手術。副鼻腔の構造は複雑で狭隘な上、薄い骨の壁を隔てて視神経・脳・動脈等の重要臓器に隣接しており、高度な手術操作技術が要求される。[参照元へ戻る]
鉗子類の写真   硬性内視鏡(直径4mm)
◆低侵襲
医療行為における患者の身体的負担を表す言葉が「侵襲性」である。手術や検査で、体内深くにある患部に到達するために、そこに至るまでの健康な組織を切り開くことは「侵襲」である。従来の大きく体表を切り開く手術に対して、手術開創の非常に小さい内視鏡下手術は「侵襲性が低い」すなわち「低侵襲」であると言う。[参照元へ戻る]
◆副鼻腔
頭蓋骨の顔の裏側部分にある、薄い骨の壁で仕切られた空洞。副鼻腔に溜った膿を、生理的線毛機能により自然に排出できなくなったのが慢性副鼻腔炎で、手術の適応対象となる。[参照元へ戻る]
◆腹腔
脊椎動物の体腔の一部。横隔膜を境として胸腔と接する腔所。中に胃・腸・肝臓・脾臓・腎臓・生殖器官などを入れる。[参照元へ戻る]
◆ラピッドプロトタイピング (RP) 技術
CAD などで計算機上に作成した三次元形状データを、薄い層状に重ねていくことで立体物として再現する技術。光造形、粉体燒結、薄板積層など各種の方式がある。[参照元へ戻る]



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