独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)強相関電子技術研究センター【センター長 十倉 好紀】は、一つの物質で分子結晶(中性)とイオン結晶(イオン性)との間を相互転換(相転移)できる有機結晶を開発した。この相転移の検証は、相転移温度を室温から極低温へと精密に制御する方法を確立して、絶対零度で二つの異なる結合状態の間を量子力学的に「トンネル」する状態(量子相転移)を初めて実現し、これを光学スペクトル測定により観測することで行った。
DMTTF(4,4',5,5'-ジメチルテトラチアフルバレン)を電子供与体(ドナー)、QCl4 (p-クロラニル)及びその臭素置換誘導体を受容体(アクセプター)とする電荷移動錯体結晶を用いて、中性-イオン性相転移温度を、圧力によって絶対零度から室温にいたるまで精密に制御することに成功した【図1】。特に、絶対零度付近で相転移が現れ始める圧力領域では、電気分極が量子力学的に揺らいでいることを示す証拠として量子常誘電性を見いだした。さらに、こうした相転移温度が絶対零度へ消失する点(量子臨界点)付近の精密な制御は、QCl4分子の四つのCl原子を一つずつBr原子に置き換える分子サイズ効果(有効圧力)によっても、圧力とほぼ等価な手法として実現できた。
光学スペクトル測定を用いて一連の錯体結晶中での分子上の電荷量の温度変化を調べた【図2】。最低温度にて有効圧力の変化に対し中性からイオン性への相転移が起こる量子臨界点付近の2,6-QBr2Cl2(2,6-ジブロモ-3,5-ジクロロ-p-ベンゾキノン)錯体では、量子常誘電性とともに中性-イオン性状態間の分子電荷の揺らぎを観測した。
以上によって今回の成果は、相転移温度を絶対零度付近まで下げることで、分子結晶とイオン結晶両者の間で量子力学的に揺らぐ(トンネルする)状態を実現したと言える。こうした、基礎科学としての興味に加え、そもそも多彩な物性を示す中性-イオン性相転移物質について、こうした量子揺らぎ効果がさらにいかなる未知の物性、機能をもたらすかを今後調べる上で、本研究での物質開拓、制御の手法は重要な一歩となるであろう。
本成果は、米科学誌サイエンス【2003年1月10日号*】に掲載された。
*Science, “ Quantum Phase Transition in Organic Charge-Transfer Complexes ” by Sachio Horiuchi(堀内 佐智雄), Yoichi Okimoto(沖本 洋一), Reiji Kumai(熊井 玲児), and Yoshinori Tokura(十倉 好紀)
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図1 有機電荷移動錯体結晶における結合性の転換(中性-イオン性相転移)の模式図と温度-圧力相図
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図2 DMTTF-QBrn Cl4-n 錯体結晶の分子の電荷移動度(D+ρA-ρのρ)の温度、有効圧力(QBr4を基準)に対する変化。赤線は各錯体のρの温度変化、黒色点線は一定温度でのρの有効圧力に対する変化。臭素二置換体2,6-QBr2Cl2は絶対零度(太い点線)で中性-イオン性相転移する点、すなわち絶対零度で中性とイオン性状態間を揺らぐ量子臨界点(QCP)にほぼ位置している。
底面は中性-イオン性相境界をあらわす。
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固体結晶には、内部の結合性の強さに応じて、分子が弱い結合で集合した「分子結晶(ex.砂糖,ナフタレン)」や、イオンの静電的な結合で形成される「イオン結晶(ex.食塩)」、原子が強く結合した「共有結合性結晶(ex.ダイヤモンド,シリコン)」、金属イオンが伝導電子によって結合した「金属結晶」が存在する。「分子結晶」と「イオン結晶」という異なる結晶の結合性を一つの物質でスイッチできるような極めてユニークな有機物としては、電荷移動錯体が知られている。電荷移動錯体とは、電子供与体(ドナー)分子と受容体(アクセプター)分子から構成され、分子間で電子授受が行われる物質である。分子上の電子に伝導性や磁性、光応答を担わせることにより、有機半導体、超伝導体、磁性体、非線形光学効果等の興味深い物性を示す物質の開発や、物性科学の基礎研究さらには応用も視野に入れた活発な研究の舞台となってきた。
本研究で対象とした「中性-イオン性相転移」とは、温度変化等によりドナー-アクセプター分子間で電子が移動し文字どおり分子の電荷が変化する、一種の固体中の可逆的な酸化還元反応である。中性-イオン性相転移によって、中性分子からなる「分子結晶」がイオン化して「イオン結晶」へと転換し、イオン結晶格子はドナーとアクセプターがペアを作るように歪んで電気分極が発生し、強誘電性をも獲得できるという極めて特異な性格を持っている。また、電場に対し容易に制御しうる強誘電体本来の機能に加え、二次の非線形光学効果などの光学的機能も持ち得ており、さらに中性-イオン性相転移の近くでは、「光誘起相転移」や「電流誘起抵抗スイッチング」といった、光や電流による制御が可能であるなどの興味深い特徴も持っている。
しかし、こうした中性-イオン性相転移システムは物質が極めて限られており、新機能探索に向けた新たな物質開拓はほとんど行われてきていない。
一方、相転移温度を絶対零度へ近づけ量子相転移を実現する手法は、金属-絶縁体転移や磁性体などの相転移系を中心に新たな物性・機能の開拓や物性物理の解明に、最近特に興味がもたれている。これは、熱揺らぎ効果に支配される高温領域での相転移とは異なる特異な物性や超伝導といった新たな相の出現などに、量子力学的な揺らぎが重要な役割を果たしていると考えられる例が見いだされ、量子相転移ではその効果が明確化するためである。
今回、産総研 強相関電子技術研究センターが有機物の中性-イオン性相転移について、転移温度を絶対零度も含め自在に制御する手法を確立したことは、結晶の結合性の転換に基づく新たな新機能探索や、応用への展開に向けた今後の研究の重要な一歩となる成果である。