発表・掲載日:2002/07/12

スピン偏極共鳴トンネル効果を発見

-新機能素子(スピン・トランジスタ)の実現に向けて道筋-

ポイント


概要

 独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)エレクトロニクス研究部門【部門長 伊藤 順司】と、科学技術振興事業団【理事長 沖村 憲樹】(以下「科技団」という)は、単結晶ナノ構造電極を持つ新型TMR素子を世界で初めて開発し、室温で動作するスピン偏極共鳴トンネル効果という新しい現象を発見した。これにより、強磁性体を用いた新しい素子の開発に道筋が開かれた。

 室温で動作するスピン偏極共鳴トンネル効果の発見は、情報記憶機能とスイッチング機能を併せ持つ新型素子(スピン・トランジスタ)の開発への道筋を開き、半導体トランジスタを必要としない新型MRAMの実現へ向けた研究を加速させる。さらに、このような電子スピンの干渉効果を固体中で制御する技術は、量子コンピュータの実現に向けて注目されている技術であり、この方面にも大いに寄与できると考えられる。

○単結晶ナノ構造電極を持つTMR素子を世界で初めて開発
 単結晶の非磁性金属(銅)と強磁性金属(コバルト)から成るナノ構造電極を持ち、量子井戸準位を生成するTMR素子を世界で初めて作製した。

○スピン偏極共鳴トンネル効果を発見
 TMR素子の電極の中に量子井戸準位を生成すると磁気抵抗が巨大な振動を起こすことを発見した。これは「スピン偏極共鳴トンネル効果」という新現象によるものである。
(この素子は室温でもスピン偏極共鳴トンネル効果を示す。)

○スピン・トランジスタの実現に道筋
 本効果を利用すれば、TMR素子にスイッチング機能を付加した新しい素子の実現が可能になる。

○米科学誌サイエンス【2002年7月12日発行】に掲載
 題目:Spin-Polarized Resonant Tunneling in Magnetic Tunnel Junctions
 著者:湯浅新治、長浜太郎、鈴木義茂

 なお、上記の研究は、産総研と科技団との共同研究契約に基づき、戦略的創造研究推進事業の中の研究領域「電子・光子等の機能制御」【研究総括 菅野 卓雄(東洋大学 理事長)】における研究テーマ「固体中へのスピン注入による新機能創製」【研究代表者 鈴木 義茂】の一環として行われた。



研究の背景と経緯

 1995年に巨大な磁気抵抗効果(TMR効果)を示す素子(TMR素子)【図1(A)参照】が開発され、これを利用した新しい不揮発性メモリ( MRAM:Magnetoresistive Random Access Memory )が考案された。MRAMは、DRAM( Dynamic Random Access Memory )に代わる大容量で高速な不揮発性メモリとして世界的に開発が行われている。このように固体中の電子スピンを利用した新しいエレクトロニクス分野は「スピントロニクス」と呼ばれ、最近急速に発展している。

 TMR素子は、磁性体の特徴である不揮発記憶の機能を持つメモリ素子である。これは、従来の半導体素子では実現できない機能である。しかし一方で、半導体素子の特徴である整流機能(ダイオード)やスイッチング機能(トランジスタ)などの機能を、TMR素子は持ち合わせていない。実際のMRAMでは、TMR素子と半導体トランジスタ(CMOS)を組み合わせて用いており、情報の記憶をTMR素子が担い、情報の選択(メモリ上のアドレスの指定)をCMOSが担っている。このため、シリコンLSI上にTMR素子を作製する必要があり、MRAMの構造や製造プロセスが複雑になる等の問題が生じる。さらに、TMR素子よりも大きなCMOSのサイズでMRAMの集積度が限定されてしまうという問題もある。もしスイッチング機能を持ったTMR素子(スピン・トランジスタ)を実現できれば、CMOSを必要としない新型MRAMや新規の不揮発性論理素子が可能となり、スピントロニクス分野に更なる飛躍的発展をもたらすと期待される。スピン・トランジスタを実現するためには、ナノメートルサイズの強磁性体で起こると考えられている特殊なトンネル効果(スピン偏極共鳴トンネル効果)を用いることが最も有効と考えられる。しかし、世界的に著名な多数の研究グループがスピン偏極共鳴トンネル効果の実現を試みてきたが、これまで極低温においてさえ成功した例はなかった。

 産総研と科技団は、今回、ナノ構造電極を持つ新型TMR素子を開発し、世界で初めてスピン偏極共鳴トンネル効果を室温で実現することに成功した。

成果の内容

(1)単結晶ナノ構造電極を持つTMR素子を開発
 単結晶薄膜作製技術を用いて、強磁性金属(コバルト)単結晶薄膜上に非常に薄い(厚さ3 ナノメートル以下)非磁性金属(銅)単結晶層を積層した「単結晶ナノ構造電極」を作製し、これを用いた新型TMR素子を世界で初めて開発した【図1(B)、図2参照】。このような強磁性金属と非磁性金属を積層したナノ構造電極の場合、ある一方向を向いた電子スピンだけが銅層の中に閉じこめられ、スピン偏極した量子井戸準位が形成される【図3参照】。スピン偏極量子井戸準位は、スピン偏極共鳴トンネル効果を実現するために不可欠である。このような量子井戸準位を生成するためには、非常に薄くて平坦な単結晶の強磁性金属と非磁性金属から成るナノ構造を作製することが非常に重要である。従来型のTMR素子では電極が多結晶であったため、電極の中に量子井戸準位を生成することができなかった。

(2)スピン偏極共鳴トンネル効果を発見
 強磁性体を用いたナノ構造電極の中に量子井戸準位ができるとスピン偏極共鳴トンネル効果が起こり、その結果、磁気抵抗が巨大な振動を示す。このような磁気抵抗の振動を世界で初めて実現した【図4参照】。特筆すべきこととして、室温(実用上極めて重要)でも大きなスピン偏極共鳴トンネル効果を実現することに成功した。これまで半導体素子では通常の(スピン偏極していない)共鳴トンネル効果が見つかっていたが、室温では大きな効果が得られていなかった。さらに、磁性体を用いたスピン偏極共鳴トンネル効果は極低温ですら実現されていなかった。今回、スピン偏極トンネル効果を実現できた要因は、極めて良質の単結晶ナノ構造電極を作製することによって電子スピンの散乱を画期的に減らすことに成功した点である。

(3)スピン・トランジスタの実現に道筋
 スピン偏極共鳴トンネル効果が室温で実現されたことで、室温で動作するスピン・トランジスタが実現可能であることが原理的に示された。今回開発した新型TMR素子を更に発展させて3端子素子を開発すれば、情報記憶機能とスイッチング機能を併せ持つスピン・トランジスタが実現できる。これにより、半導体トランジスタを必要としない新型MRAMや新規の不揮発性論理素子の開発が可能になると期待される。さらに、このような電子スピンの干渉効果を固体中で制御する技術は、量子コンピュータへの応用の点からも注目されている。

従来型のTMR素子の図
図1(A): 従来型のTMR素子
 
  単結晶ナノ構造電極を持つ新型TMR素子の図
図1(B): 単結晶ナノ構造電極を持つ新型TMR素子
 
単結晶ナノ構造電極を持つ新型TMR素子の電子顕微鏡写真画像
図2: 単結晶ナノ構造電極を持つ新型TMR素子の電子顕微鏡写真。
非磁性層(銅)と強磁性層(コバルト)が単結晶ナノ構造電極を構成している。
 
新型TMR素子のナノ構造電極の中に量子井戸準位が生成する図
図3: 新型TMR素子のナノ構造電極の中に量子井戸準位が生成する。左右を向く矢印は、電子スピンの向きを表す。
銅層の中に、一方向を向く電子スピン(図では左向き)だけが閉じこめられ、スピン偏極量子井戸準位を形成する。
 
スピン偏極共鳴トンネル効果が起こり、磁気抵抗が巨大な振動を示す図
図4: スピン偏極共鳴トンネル効果が起こり、磁気抵抗が巨大な振動を示す。
特筆すべきは、室温でもスピン偏極共鳴トンネル効果が起きていることである。
 


今後の予定

 今後、固体中に電子スピンを注入することによる新機能創製を目指す。

用語の説明

◆スピン偏極共鳴トンネル効果、量子井戸準位、スピン・トランジスタ
金属や半導体などをナノスケールまで小さくすると、その性質、特に電子状態が変化する。特に、金属や半導体を非常に薄くすると、その中に電子が閉じこめられ、幾つかの離散的なエネルギーを持つ状態(量子井戸準位)ができる。ノーベル賞物理学者の江崎玲於奈博士は、半導体の量子井戸準位を利用して新規のトランジスタ(共鳴トンネルトランジスタ)を開発した。半導体ではなく強磁性金属を用いれば、情報記憶機能とスイッチング機能を併せ持つ新しい素子(スピン・トランジスタ)が実現できると期待される。[参照元へ戻る]
◆多結晶、単結晶、ナノメートル、ナノ構造電極
通常の金属やセラミクス(陶器・磁器)は多結晶といわれ、小さな結晶粒子の集まりである。このひとつひとつの結晶粒子の中では原子が整然と配列しているが、大きさや、向きの異なる粒子が集まっているので全体としては、乱雑であり、表面も凸凹になりやすい。
一方、ダイヤモンドの宝石のようにひとつの塊の全体にわたって原子が整然と並んでいる物質を単結晶と呼ぶ。単結晶は、宝石がそうであるように非常に均質であり、その表面も原子スケールで平坦にするこができる。TMR素子の電極をこのような金属の単結晶で作ると、非常に平坦な薄膜(「単結晶電極」)とすることが出来る。さらに、その厚さをナノメートル(百万分の一ミリメートル)まで薄くしたものをナノ構造電極と呼ぶ。[参照元へ戻る]
◆TMR素子、TMR効果、磁気抵抗
非常に薄い絶縁体(トンネル障壁という。通常、酸化アルミ(Al-O)を用いる)を2枚の強磁性金属の電極で挟んだ素子をトンネル磁気抵抗素子(TMR素子)という【図1(A)参照】。2つ強磁性電極の磁石の相対的な向きが平行な時と反平行な時で、TMR素子の電気抵抗が大きく変化する。この現象をトンネル磁気抵抗効果(TMR効果)と呼ぶ。このように磁気によって変化する電気抵抗のことを磁気抵抗と呼ぶ。[参照元へ戻る]
◆電子スピン、スピン偏極
マイナスの電気を帯びた粒子である電子は、物質の電気的な性質に深く関係している。例えば、金属の中で電子が移動することによって、電流が流れる。一方、電子は磁気的な性質にも関係があり、個々の電子が非常に小さな磁石の性質を持っている。このような電子の磁石を電子スピンと呼ぶ。通常の半導体や非磁性金属では電子スピンが色々な方向を向いているため、それぞれの電子スピンが互いに打ち消し合ってしまう結果、これらの物質は磁石としての性質を持たない。これに対して、強磁性金属ではある一方向を向いた電子スピンが多数存在するので、電子スピン同士が打ち消し合って消えることがないため、その物質は磁石になる。このように、ある一方向を向いた電子スピンが多数存在していることを「スピン偏極している」という。[参照元へ戻る]
◆MRAM
TMR素子を用いたコンピュータ用メモリがMRAMである。TMR素子の2つの強磁性電極の磁化の相対的な向きが平行か反平行のどちらかの状態をとるようにすると、1個のTMR素子で1bitの情報を記憶できる。TMR効果によって平行状態と反平行状態でTMR素子の電気抵抗が異なるため、素子の電気抵抗を計れば、TMR素子に記憶された情報を非破壊で読み出すことができる。実際のMRAMでは、TMR素子をマトリックス状に多数並べる。MRAMは原理的には、不揮発、高速、低消費電力、低電圧駆動、高集積といった、メモリに要求される特性を全て兼ね備えた次世代メモリである。TMR素子は日本(東北大 宮崎教授)の発明であるが、MRAMの研究開発は米国(IBM、モトローラ)が先行している。日本でも企業が試作を開始しており、それを支える経済産業省のプロジェクトも本年度から始まる。[参照元へ戻る]
◆量子コンピュータ
量子力学の世界の超並列性を利用して、非常に高機能なコンピュータが実現できることが理論的に示されている。しかし、その実現のためには、量子力学的な干渉性の制御という超難題を解決しなければならない。量子力学的な干渉性とは、例えば一匹の猫が生きている状態と死んでいる状態の両方に同時に存在でき、その二つの状態を重ね合わせることが出来るということである。スピン偏極共鳴トンネル現象の発見によって、この種の素子では電子のスピンと波動関数の干渉性が保たれていることが見出された。[参照元へ戻る]
◆不揮発性論理素子
現在のコンピュータは、電源を切ってしまうと記憶が失われてしまう。これは、コンピュータの中で記憶や演算を担う半導体素子が揮発性(電源を切ると記憶を失う性質)であることに因る。通常、ハードディスクに情報を記録し、コンピュータの電源を入れた際にハードディスクの情報を半導体素子にコピーしている。このため、パソコンの起動には時間がかかるし、パソコンの電源が入っている間は(たとえパソコンを使用していなくても)少なからず電力を消費している。もし、不揮発性論理素子(電源を切っても記憶が保持される素子)が実現できれば、電源を入れると瞬時に起動するコンピュータ(インスタント・オン・コンピュータ)ができる。さらに、使用していないときにはユーザーに気付かれずに一秒間に何回でも電源を切ることができるため、ほとんど電力を必要としないコンピュータもできるはずである。[参照元へ戻る]


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