発表・掲載日:2002/02/15

氷中のプロトン拡散過程の観測に成功

-分子固体プロトニクス研究に突破口-

ポイント

  • 氷中のプロトン拡散過程を世界で初めて観測
  • 独自に開発した高圧技術と分光学的手法を用いて成功
  • プロトン拡散を利用した分子固体プロトニクス研究に突破口

概要

 独立行政法人 産業技術総合研究所【 理事長 吉川 弘之 】(以下「 産総研 」という)物質プロセス研究部門【 部門長 水上 富士夫 】は、産総研が開発した高圧技術と分光学的手法を用いて、プロトニクス研究のキー物質である氷中のプロトン拡散過程の測定に初めて成功した。分子固体中のプロトン移動を利用した材料研究に新たな展開がもたらされるものと期待される。

 氷の物質移動は分子拡散とプロトン拡散の二つの機構によって起こると考えられている。氷結晶中の空隙を利用して水分子が移動するのが「分子拡散」、隣接する水素結合間をプロトンがジャンプしながら移動するのが「プロトン拡散」である。氷中の物質移動は半世紀にわたって研究されているが、その全てが分子拡散に関するものであり、プロトン拡散に関する研究報告はなされていない。1気圧零度以下で出現する氷(常圧氷)中では空隙を利用した分子拡散が支配的であり、化学結合の切断-形成を伴うプロトン拡散は速度が極めて遅いことから観測が困難であった。

氷の相図と結晶構造の図

 産総研では、独自に開発した高圧技術と分光学的手法を用いて、氷中のプロトン拡散測定に初めて成功した。軽水(H2O)と重水(D2O)の二層膜間でのプロトン(H+)とデュウテロン(D+)の相互拡散過程を、赤外振動スペクトル測定で観測したもので、測定原理は極めて単純である。しかしながら、高圧セルを用いた実験であることから、氷二層膜(膜厚数十ミクロン)の作成法、膜厚の測定法、スペクトルの補正法など、各種要素技術の開発に取り組む必要があった。

高圧セル中で加圧された氷中のプロトン拡散過程の観測についての図とグラフ

 高圧実験の有効性は二つある。空隙のない高密度構造を持つ「高圧氷」が出現し分子拡散が抑制されること、ならびに融点が上昇することによりプロトン拡散が加速される「高温氷」が実現されることである。10万気圧・127℃における拡散速度(拡散係数)は10-15m2/sであり、1気圧・-15℃の常圧氷中のプロトン拡散係数(推定値)と比べて5桁大きいことがわかった。プロトンは1秒間に約300ナノメートルの速さで氷中を移動する計算になる。

 本成果は、Science 誌( 2002年2月15日発行 VOL 295 )*に掲載される。

 氷はプロトン拡散機構を研究する上で最も適した物質であり、エレクトロニクスの開発研究を支えたシリコンに匹敵する物質として位置付けられる。今後、ドーピング効果や、作動環境(圧力・温度)と拡散速度の関係をあきらかにしていく中で、分子固体プロトニクス研究の基盤が築かれるものと期待される。

Protonic diffusion in high pressure ice VII
Eriko Katoh(加藤えり子), Hiroshi Yamawaki(山脇 浩), Hiroshi Fujihisa(藤久裕司), Mami Sakashita(坂下真実), Katsutoshi Aoki(青木勝敏)
Science 2002 February 15 Vol 295



研究の背景

 プロトンは化学結合の切断-形成を伴って物質中を移動する特異な粒子であり、移動機構の研究によって、固体電解質、光デバイス開発、生体機能解明など、それぞれ、エネルギー、情報通信、バイオ研究の基盤が構築されるものと期待される。プロトニクスは20世紀の産業を支えた基盤技術エレクトロニクスと対比されるべき有望な21世紀技術であり、前述の重点課題の共通基盤技術として重要性の高い研究課題である。

研究の経緯

 氷は分子固体中のプロトン拡散機構を研究する上で最適な物質である。水分子(H2O)の構造が単純であり、結晶構造も単純である。さらに、プロトンが関与する水素結合が等価である。従って、プロトンの拡散過程が単純化され、理論によるモデルの提案、実験による検証が比較的容易に行えると考えられる。しかしながら、常圧氷中ではプロトン拡散速度は極めて小さく、分子拡散に隠れて、その測定が困難である。実際、「氷中のプロトン拡散の機構モデルは半世紀前に提案されている」が、「プロトン拡散に関する実験報告は全くなされていない」。一方で、最近の計算機シミュレーションは、「プロトンが自由に動き回る超イオン伝導状態が高温高圧下の氷中で出現する」と予測している。

 氷は、分子固体プロトニクス研究のキー物質であるとともに、超イオン伝導の可能性を秘めたエキゾチック物質でもある。そのような興味から、2年前に氷中のプロトン拡散実験に着手した。実験を成功させるためには二つの課題を解決しなければならなかった。一つは「プロトン拡散が観測可能な氷の状態をいかに創り出すか?」ということである。この課題は「氷を高温高圧状態にすることで解決できるとの予測」を立てた。高圧下で高密度化された氷中では分子拡散が制御され、さらに高温下ではプロトン拡散が著しく加速されることを期待したのである。そして、もう一つは「高温高圧氷中のプロトン拡散過程をどのようにして観測するか?」ということであった。この課題は「プロトンとデュウテロンの相互拡散過程を、赤外反射スペクトルの時間変化で測定すること」で解決された。同位体であるプロトンとデュウテロンの質量比は1:2と大きな値をとる。その結果プロトンとデュウテロンの伸縮振動数は1:??2と大きく異なり、それぞれの振動ピークは赤外反射スペクトル上で異なる場所に観測される。ピーク強度の時間変化はプロトンとデュウテロンの相互拡散による濃度変化に対応することから、測定されたピーク強度の時間変化を拡散方程式を用いて解析することによって拡散係数を決定することができる。

今後の予定

 今後は、氷中のプロトン拡散機構を解明するために、広い温度・圧力領域での拡散速度の測定、さらには拡散速度へのドーピング効果の影響の研究に取り組む。これら一連の研究によって、氷中のプロトン拡散速度を決定している因子が明らかになり、拡散機構が解明されるものと期待される。

 また、並行して、開発された手法を氷以外の物質にも適用し、高速プロトン拡散材料の探索、拡散過程の制御法の開発へと研究を展開していく予定である。



用語の説明

◆プロトニクス
「プロトン(陽子)」が関わる現象を利用した材料・工学技術。「電子」が関わる現象を利用した材料・工学技術が「エレクトロニクス」である。「プロトニクス」の使用例としては、2001年4月19日発行のNATURE誌に掲載された記事「The promise of protonics」がある。そこでは燃料電池の固体電解質として注目を浴びている CsHSO4 が紹介されている。[参照元へ戻る]
◆プロトン(陽子)
ここでは水素原子Hがイオン化してできる水素陽イオンHを意味する。質量が小さいため他の原子(またはそのイオン)と比べて移動し易い。水中では水分子H2Oの一部が水酸基OH-とプロトンH+に解離しており、プロトンは水酸基と再結合-解離を繰り返しながら水の中を移動することが知られている。
陽子: 水素の原子核。電子の1836倍の質量と、電気素量に相当する陽電荷を持つ。スピンは1/2。
素粒子の一つで、中性子と共に原子核の構成要素。 10(32乗)年以上の寿命を持つとされ、陽子の安定性は物質の安定性の基礎である。[参照元へ戻る]
◆デュウテロン(重陽子)
プロトン(陽子)に中性子が1個結合したものでスピン量子数1を持つ(陽子と中性子のスピン量子数1/2の和)。化学的性質はプロトン(陽子)に非常に近いが質量は2倍であることから、質量の寄与が大きな状態、例えば、振動状態に両者間で大きな差異が観測される。[参照元へ戻る]
◆相互拡散過程
異種粒子が交換反応をしながら拡散することを相互拡散と呼ぶ。本研究では、陽子(プロトン、H)とその同位体である重陽子(デュウテロン、D)が H2O/D2O 氷二層膜中で相互拡散する過程を観測している。[参照元へ戻る]
◆赤外振動スペクトル測定
赤外領域(2.5~25mm)の光の吸収スペクトルから分子の振動状態を調べる分光法。氷中ではプロトン振動状態は約3mm付近に強い吸収を示す。一方、デュウテロンは4.3mm付近に強い吸収を示す。
本研究では、吸収強度が観測点でのプロトンH+とデュウテロンDの濃度に比例することを利用して、吸収強度の時間変化から相互拡散速度を求めている。[参照元へ戻る]
◆融点が上昇
氷の融点は1気圧では0℃であるが、5万気圧では253℃、10万気圧では413℃まで上昇する。
高圧下では「熱い氷」を作ることができる。[参照元へ戻る]
◆ドーピング効果
多物質に不純物をわずかに添加することによって、その性質が大きく変わることをドーピング効果という。その有名な例は、ポリマーにヨウ素を添加することによって、電気的絶縁体が金属に変わることを見出した白川先生(2000年度ノーベル化学賞受賞者)の研究が有名である。我々は、ドーピングによってプロトン拡散が速くなることを期待している。[参照元へ戻る]


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