独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】ヒューマンライフテクノロジー研究部門【研究部門長 赤松 幹之】菅生 康子 主任研究員、松本 有央 主任研究員、国立大学法人 筑波大学 大山 薫 研究員、国立大学法人 京都大学 河野 憲二 教授は、顔を逆さにすると側頭葉の神経細胞はそれが顔であることは捉えるにもかかわらず、個体や表情の情報量が減ることを動物実験によって発見した。
顔が上下逆さに提示されると、その顔を見分ける能力が低下するがその仕組みは明らかでなかった。『脳は見ているものが顔かどうかの認識に続いて個体や表情の情報を段階的に処理する』という発見に基づいて調べた結果、顔の逆さ提示によって、神経細胞が処理する情報のうち、顔の個体や表情の情報量のみが減少することが分かった。また、顔かどうかといった大まかな認識に貢献する神経細胞と逆さ顔の影響を受ける神経細胞が異なることも示唆された。さらにサッチャー錯視の効果が神経活動として確認できた。これらの知見により、生体の顔認知メカニズムの理解が深まり、顔を使った個人/表情認知システムの実環境での適用などに貢献すると期待される。また、顔の認識ができない(相貌失認)疾患や認知症などで個体・表情認知の機能が低下する病態のメカニズム解明にも寄与すると期待される。
なお、本研究成果は、2014年9月11日(日本時間)に米国科学誌Journal of Neuroscienceに掲載された。
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図1 正立の顔と倒立の顔に対して脳が処理する情報
正立の顔では顔情報と個体情報の両方を、倒立の顔では顔情報だけを処理する。 |
顔からその人が誰でどのような気持ちかを知ることは、私たちの社会生活を支える脳の重要な機能の1つである。相貌失認の治療や、認知症などで個体・表情認知の機能が低下することを抑止する技術開発の手掛かりを得るために、その脳内メカニズムの早期解明が待たれている。
個体や表情を見分けるには、目、鼻、口、髪、眉などの顔の要素を組み合わせた情報が重要であることが示唆されていた。組み合わせ情報が逆さ顔では見分けにくくなることは顔の倒立効果と呼ばれる心理学的現象として知られ、サッチャー錯視でそれを体験できる。また、顔を見て反応する脳の部位はヒトとサルで似ていること、顔の要素の形の情報は側頭葉で処理されることが分かっている。これまでに産総研ではサルの側頭葉視覚連合野の神経細胞がまずヒトかサルか図形かという大まかな分類情報を、それに遅れて個体や表情などの詳細な分類情報を処理することを発見した。個体・表情の情報の処理が遅れる原因は、顔要素の組み合わせ情報の処理に時間がかかることにあると推測し、サルの側頭葉視覚連合野の神経細胞の活動から、正立の顔と逆さ顔を見る際に処理する情報、特に個体・表情の情報量の違いを調べることとした。
なお、本研究は、文部科学省 科研費補助金 新学術領域研究「スパースモデリングの深化と高次元データ駆動科学の創成」(平成26年度)、新学術領域研究「学際的研究による顔認知メカニズムの解明」(平成20~24年度)および若手研究B(平成22~24年度)による支援を受けて行った。
今回、複数の個体と表情からなるヒトとサルの顔画像と単純図形を刺激する素材として用い、顔画像は正立、または逆さの状態で提示した。また、目の部分だけが倒立したサッチャー錯視化顔画像も提示した。画像提示中に側頭葉視覚連合野から単一神経細胞の活動を記録した。顔を見るとまずヒトかサルか図形かを(図2、赤曲線)、それに遅れて個体・表情(図2、黒曲線)を処理していた。顔を逆さに提示した場合、神経細胞が処理する情報のうち、顔の個体や表情の情報量のみが減少することが分かった(図2、黒曲線)。一方で、ヒトかサルか図形かを分類する情報量は正立でも逆さでも差がなかった。
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図2 顔画像提示後に側頭葉単一神経細胞が処理する情報量の時間経過 |
図3に119個の神経細胞の活動に対するクラスター分析の結果を示す。正立でも逆さでもヒトとサルと図形とは分かれていて、おおまかな分類は影響をうけないことが分かった。しかし、個体や表情については、正立顔画像ではヒトが個体ごとに分かれ、サルでは口を開けているか開けていないかで分かれた(図3左)のに対し、逆さ顔画像では、ヒトの個体やサルの表情によって分かれなかった(図3右)。
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図3 119個の神経細胞の活動のクラスター分析の結果(2次元平面における概念図)
神経活動の類似度が高い画像群が1つのクラスター(黒丸)として示されている。 |
これらの結果は、側頭葉視覚連合野の神経細胞は、逆さ顔を見た時、顔であるという情報は処理できるが、個体や表情についての情報の処理は困難になることを示している。顔を逆さにしても視覚特徴は同一であるが、逆さにすることで顔についての異なるレベルの分類情報(ヒトかサルか図形か、どの個体・表情か)に異なる影響を与えたことは、これら2種類の情報は異なる仕組みで処理されることを示している。さらに解析を進めたところ、ヒトかサルかといった大まかな分類に貢献する神経細胞と逆さ顔の影響を受ける神経細胞が異なることが分かった。また、サッチャー錯視の効果も神経活動として確認できた。具体的には、正常顔とサッチャー錯視化顔に対する神経活動の違いが、正立顔のほうが逆さ顔よりも大きいことを確認した。この違いはサルの顔画像についてのみ観察できた。従って、サルはサルの顔に対してサッチャー錯視を体験していることが示唆され、これまで比較心理学的研究で観察されたサルの行動と整合性があることも分かった。
逆さ顔の提示では個体や表情の情報が減少することから、人間に顔を提示する場合は、例えば病床の方のケアや国際宇宙ステーションなどの無重力状態での生活など正立で提示することが難しい場合には、画像センシング技術などを利用して顔画像を正立させて提示するシステムが有益と考えられる。
今後は顔認知の仕組みの解明に迫るため、今見ている顔と記憶から想起された顔とを照合する仕組みを、神経細胞の活動を調べることで明らかにしていきたい。
独立行政法人 産業技術総合研究所
ヒューマンライフテクノロジー研究部門 システム脳科学研究グループ
主任研究員 菅生 康子 E-mail:y-sugase*aist.go.jp(*を@に変更して送信下さい。)