発表・掲載日:2013/03/01

生体構成物質の特定原子周辺の立体構造の違いを検出

-生体分子の構造の新たな分析手法に指針-


概要

 高輝度光科学研究センター(JASRI)、神戸大学、日本原子力研究開発機構(JAEA)の研究グループは、産業技術総合研究所 計測フロンティア研究部門 光・量子イメージング技術研究グループ 田中 真人 研究員と共同で、軟X線領域での自然円二色性スペクトルの高精度な計測により、生体物質を構成する複数の異なるアミノ酸中の酸素原子近傍の局所的な立体構造の違いを検出することに成功しました。

 これまで軟X線を利用した吸収スペクトル測定が、物質の組成解析などに多く利用されてきました。一方、円偏光軟X線を利用した自然円二色性スペクトルは、物質の立体構造情報の取得に有効であるとされていたものの、測定が非常に困難であったため研究が十分に進んでいませんでした。

 そこで、大型放射光施設SPring-8の軟X線固体分光ビームラインBL25SUに設置されたツインヘリカルアンジュレーターからの軟X線の円偏光状態を高速で切り替える技術を駆使することで、ノイズを吸収強度の0.1%以下まで低減させるなど、自然円二色性スペクトルの測定精度を大幅に向上させました。本測定手法は、従来の一般的な吸収スペクトル測定では観測できないようなわずかな立体構造の違いを高感度で検出することを可能とするものです。この手法を用いて側鎖の異なるさまざまなアミノ酸試料の軟X線領域での自然円二色性スペクトルの測定を行ったところ、吸収スペクトル測定では観測できなかった側鎖の違いを観測できました。今後は、タンパク質などの生体分子の詳細な構造決定から創薬分野まで、さまざまな応用が期待されます。

 この成果は、2013年2月21日号(アメリカ東部標準時間)に米国物理学会の刊行誌「The Journal of Chemical Physics」に掲載されました。


1.研究の背景

 アミノ酸や糖といった生体分子の多くには鏡に写った像と実像との関係のようなL型とD型の構造があり、この性質をキラリティーを持つといいます。キラリティーを持つ分子は、同じエネルギーの光でも右円偏光と左円偏光とで吸収の強さが異なる自然円二色性という性質を持ちます。この自然円二色性は赤外線、可視光、紫外線領域では広く利用されており、特にバイオ分野ではタンパク質のらせん構造などの構造解析手法として一般的に活用されています。

 軟X線領域の自然円二色性の測定により物質を構成する原子近傍の環境情報を原子の種類ごとに区別して取得できるため、分子全体の立体構造を反映する赤外線や可視光、紫外線領域の自然円二色性と異なり、調べたい原子近傍の構造情報が得られる可能性が示唆されていました。しかしながら、生体分子の軟X線領域の自然円二色性強度は小さなノイズにさえ影響を受けるほど微弱(吸収強度の1%以下)であるため、測定が非常に困難で研究がほとんど行われてきませんでした。

2.研究内容と成果

 軟X線領域での自然円二色性スペクトル測定は大型放射光施設SPring-8のBL25SUにおいて行われました。本研究グループはまず、自然円二色性信号の測定を阻害するさまざまなノイズを低減、除去するための測定環境整備を行い、吸収強度の0.1%以下までノイズの低減を達成しました。また、取得したデータの解析方法を確立しました。

 この測定・解析手法を用いたところ、特徴的な側鎖をもつ4種類のアミノ酸薄膜の軟X線領域(酸素K殻吸収端近傍)の自然円二色性スペクトル測定に成功しました。これらのアミノ酸は図1右に示すように側鎖の部分以外は同じ原子団でできています。吸収スペクトル(図1左上)を、アミノ酸が共通して持つカルボキシレート基中の酸素原子のK殻吸収端近傍で測定してもアミノ酸の種類による違いがほとんど見られませんでした。

 しかし、自然円二色性スペクトルでは、共通した原子団を調べているにもかかわらず、それぞれ異なる形状を示すことがわかりました(図1左下)。これは側鎖の種類や分子の立体構造の違いが、異なるスペクトル形状として観測されたと考えられます。

 軟X線吸収スペクトルは分子の化学組成や結合状態を調べる手法のひとつとして一般に確立した技術ですが、軟X線自然円二色性スペクトルは、生体分子の構造をより詳細に調べるための新たな分析手法としての利用が期待されます。

測定したL型アミノ酸の構造式とカルボキシレート基中の酸素原子の吸収スペクトルと自然円二色性スペクトルの図
図1 (右) 測定したL型アミノ酸の構造式。アミノ酸の種類によって側鎖の部分が異なる。
(左上) 共通部位であるカルボキシレート基中の酸素原子の吸収スペクトル、および(左下)自然円二色性スペクトル。横軸は、吸収スペクトルのピークエネルギーを0 eVとした相対値で表しており、0 eVが約532 eVに相当する。

3.今後の展開

 今回は薄膜試料の測定を行いましたが、自然円二色性スペクトルは溶液試料の測定も可能です。そのため、試料の結晶化が必要なX線回折法に比べ、生体内に近い条件で測定することができます。したがって、今回測定された酸素原子由来の自然円二色性スペクトルだけではなく、炭素や窒素原子に起因する自然円二色性スペクトルを併せて測定し、構成原子近傍の立体構造情報を得ると共に、市販の装置を用いた紫外線領域の自然円二色性スペクトルから得られる分子全体の立体構造情報を相補的に利用することで、自然円二色性計測によるタンパク質の構造決定の高度化の実現、ひいてはそのタンパク質構造に基づく創薬研究などでの広い利用が期待されます。

問い合わせ

独立行政法人 産業技術総合研究所
計測フロンティア研究部門 光・量子イメージング技術研究グループ
研究員  田中 真人  E-mail:masahito-tanaka*aist.go.jp(*を@に変更して送信下さい。)



4.用語解説

◆軟X線
X線のうち、エネルギーが低く、大気中をほとんど透過できないX線のことです。炭素、窒素、酸素などの生体分子を構成している元素に由来する情報を個別に調べることができます。[参照元に戻る]
◆自然円二色性
分子(あるいは一般に物質)は特定のエネルギーの光を吸収します。物質が同じエネルギーの右円偏光と左円偏光を吸収する度合いに差があるとき、その物質は自然円二色性をもつといいます。自然円二色性測定は円偏光紫外線を利用して、タンパク質の構造決定などに広く用いられています。[参照元に戻る]
◆アミノ酸
アミノ基(-NH2)とカルボキシル基(-COOH)をもつ分子をアミノ酸と言います。固体のアミノ酸は、アミノ基とカルボキシル基がそれぞれ-NH3+、-COO-(カルボキシレート基)となった両性イオン状態で存在することが知られています。アミノ酸にはL型アミノ酸とD型アミノ酸と呼ばれる互いに鏡像関係にある分子が存在しますが、生物体内では基本的にL型アミノ酸が使われています。またタンパク質は主に20種類のアミノ酸からできています。[参照元に戻る]
◆円偏光
光は電場と磁場とが振動しながら進む横波です。電場や磁場が一周期進む間に電場の向きが光の進行方向の軸の周りを回りながら進む光を円偏光といいます。自分に向かって進んでくる光の電場が時計回りのときに右円偏光、反時計回りのときに左円偏光といいます。[参照元に戻る]
◆大型放射光施設SPring-8
独立行政法人 理化学研究所が所有する、兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す施設で、その運転管理と利用者支援はJASRIが行っています。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeVに由来します。放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生する、細く強力な電磁波のことです。SPring-8では、この放射光を用いてナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われています。[参照元に戻る]
◆ツインヘリカルアンジュレーター
本研究では右円偏光軟X線源、左円偏光軟X線源として二つ(ツイン)の光源(ヘリカルアンジュレーター)を利用し、左右円偏光軟X線を素早く切り替えながら測定を行いました。[参照元に戻る]
◆側鎖
生体内のアミノ酸は、中心の炭素原子に4つの原子(団)が結合します。そのうち、水素、カルボキシル基、アミノ基の3つはすべてのアミノ酸で共通ですが、残りのひとつはアミノ酸の種類ごとに異なります。この種類ごとに異なる原子団のことを総称して側鎖と呼びます。[参照元に戻る]
◆キラリティー
右手と左手のように鏡に映した対称的な構造を持っており、重ね合わせることができない性質。特に分子中では、構成元素や結合順序は同じであるが、化学結合の組みかえなしには鏡像と重ね合わせることができない性質。[参照元に戻る]
◆K殻
原子は原子核と、それを取り巻く電子の層(電子殻)で構成されていると考えることができます。電子殻は複数あり、原子核に最も近い電子殻をK殻と呼んでいます。[参照元に戻る]
◆吸収端
入射する(軟)X線のエネルギーを徐々に上げながら、物質の吸収強度を測定していると、入射(軟)X線のエネルギーが電子の束縛エネルギーに達した時に物質の吸収強度は急激に上昇します。このような吸収強度が大きく変化するエネルギー領域の事を吸収端といいます。吸収端のエネルギーは原子ごと、電子殻ごとにさまざまに異なるので、酸素K殻吸収端のように表記します。[参照元に戻る]