発表・掲載日:2013/01/10

状況に応じて物事の意味を柔軟に認識する脳の活動を発見

-認知症の理解へ手掛かり-

ポイント

  • 脳の嗅周囲皮質に、近い将来の報酬の有無を反映する神経活動を発見
  • 物事の柔軟な認知を支える脳のメカニズムを解明する手掛かり
  • 認知症患者の心の働きへの理解に寄与することを期待

概要

 独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 野間口 有】(以下「産総研」という)ヒューマンライフテクノロジー研究部門【研究部門長 赤松 幹之】菅生 康子 主任研究員、松本 有央 研究員、バイオメディカル研究部門【研究部門長 近江谷 克裕】佐藤 主税 研究グループ長と国立大学法人 筑波大学【学長 山田 信博】大学院 人間総合科学研究科 感性認知脳科学専攻 大山薫、人間総合科学研究科・医学医療系設樂 宗孝 教授は共同で、同じ事柄を、状況に応じて、異なる意味を持つ事柄として認識するための神経機構が霊長類の脳の嗅周囲皮質に存在することを確認した。

 これは、物事の意味を認識する脳の情報処理メカニズムを解明する手がかりになるだけではなく、具体的にどのような情報処理が行われているか知られていない認知症患者の心の働きの理解に寄与することも期待される。

 今回の実験では、サルに2種類の色刺激と、次いで白黒のパターン刺激を見せた。色刺激とパターン刺激の組み合わせにより「報酬あり」「報酬なし」が決まる。白黒のパターン刺激を見せた際の嗅周囲皮質における神経細胞活動を電気的に記録した結果、同じ白黒のパターン刺激を与えても、脳内では事前に見せられた異なる色刺激の情報によって報酬の有無を連想していることが分かった。状況に応じてある出来事の認識を柔軟に変化させる時の脳内情報処理メカニズムに、嗅周囲皮質内部の神経機構が関与していることが今回の研究によって初めて明らかになった。

 本成果は2012年11月28日(日本時間)に米国科学誌Journal of Neuroscienceに掲載された。

嗅周囲皮質の位置と関連する脳部位の働きの図
嗅周囲皮質の位置と関連する脳部位の働き

開発の社会的背景

 我々の日常生活において記憶機能は重要な役割を担っている。また、長寿化が進むにつれ、記憶の機能が衰える認知症への対応が社会の大きな課題となってきている。記憶の脳内メカニズムを明らかにすることは、認知症を理解し、認知症患者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を向上する技術開発の手掛かりを得ることにつながる。特に、心の動きなどによって処理の仕方を変える柔軟な認知の仕組みは不明な点が多く、早期解決が待たれている。

研究の経緯

 産総研は、認知や学習といった高次脳機能がどのような生理学的・解剖学的システムで実現されているかを理解する研究に取り組んできた。また、超低ノイズ信号増幅器や高速カメラを用いた眼球位置計測装置の開発など、行動課題を遂行中の実験動物で脳活動を記録するための実験機器の開発を行っている。今回の研究では、嗅周囲皮質の神経細胞が状況に応じて柔軟に意味の異なる記憶(報酬の有無)を表現できるかどうかを調べた。

 なお、産総研で行われている全ての動物実験は、産総研 動物実験委員会の承認を得た上で、動物愛護法を遵守するなど適切な方法により実施されている。

 本研究は文部科学省 科学研究費補助金による支援を受けて行った。

開発の内容

 日常生活における物事の柔軟な認知は脳の活動によって支えられている。人間は、同じ出来事であっても、状況が異なる場合には異なった意味合いとして柔軟に認識できる。例えば、かき氷を見たときに、暑い気候であれば「うれしい」と感ずるが、寒い気候であれば「がっかり」と感じる(図1)。今回、こうした物事を識別する脳のメカニズムを明らかにするため嗅周囲皮質(図2)の情報処理の解明に取り組んだ。

 嗅周囲皮質は、下側頭皮質から視覚刺激の情報を受け取り、記憶に重要な海馬と直接あるいは間接的な神経線維連絡があり、視覚刺激の記憶や、ある二つの視覚刺激に対応関係があることを記憶する際に重要な役割を果たしている。また、報酬・嫌悪の情報処理に大きく関与している扁桃体や眼窩前頭前野とも神経線維連絡があり、視覚刺激と報酬との関係の学習にも重要な役割を果たしているとされている。

同じ出来事を状況に応じて異なる意味で捉える一例の図
図1 同じ出来事を状況に応じて異なる意味で捉える一例

嗅周囲皮質の位置と関連する脳部位の働きの図
図2 嗅周囲皮質の位置と関連する脳部位の働き

 今回の実験では、同じパターン刺激が、その前に呈示される色刺激によって、「報酬あり」か「報酬なし」に関係づけられている。実験動物は、色刺激を記憶し、続いて呈示されるパターン刺激を見て報酬の有無を連想する(図3)。実験動物のパターン刺激呈示中の嗅周囲皮質の神経細胞活動を電気的に記録したところ、パターン刺激呈示中つまり、まだ実際の報酬呈示・非呈示が行われていない状況にもかかわらずニューロンの約半数が報酬の有無の情報を表現することが分かった(図3右)。さらに、色刺激・パターン刺激の組み合わせの情報も表現していたことから、嗅周囲皮質で報酬の有無の情報が段階的に処理されることも示唆された。つまり、第一段階で、色刺激とパターン刺激の情報を組み合わせることで4種類の色刺激・パターン刺激の組み合わせの情報を認識し、第二段階ではそれらの色刺激・パターン刺激の組み合わせの情報と、報酬の有無の情報を関係づけることで、パターン刺激呈示期に報酬の有無の情報を理解していると考えられる。状況に応じてある出来事の認識を柔軟に変化させる時の脳内情報処理メカニズムに、嗅周囲皮質内部の神経機構が関与していることが今回の研究によって初めて明らかになった。

 今回の研究成果から、嗅周囲皮質が状況に応じて行動を変える際に重要な役割を果たすと考えられるため、認知症などへの理解が進むことも期待される。例えば、アルツハイマー病は認知症の病因の一つだが、原因となる神経毒の成分で嗅周囲皮質が破壊されている可能性が考えられる。また、嗅周囲皮質が侵される疾患の場合には、状況に応じて現在の出来事を柔軟に認識することが難しくなることが予想される。

嗅周囲皮質の働きを調べる色パターン刺激実験の図
図3 嗅周囲皮質の働きを調べる色パターン刺激実験

今後の予定

 今後は、同じ色パターン刺激実験により、嗅周囲皮質と連絡のある脳部位での情報処理を調べ、物事の柔軟な認知を支える脳のメカニズムの解明に挑む予定である。

問い合わせ

独立行政法人 産業技術総合研究所
ヒューマンライフテクノロジー研究部門 システム脳科学研究グループ
主任研究員 菅生 康子  E-mail:y-sugase*aist.go.jp(*を@に変更して送信下さい。)



用語の説明

◆嗅周囲皮質
海馬に隣接し、記憶について重要な役割をもつことが知られている大脳皮質の一領域。視覚情報の処理に重要な下側頭皮質や、報酬・嫌悪の情報処理に重要な扁桃体、眼窩前頭前野からの神経線維投射がある。[参照元に戻る]
◆クオリティ・オブ・ライフ(QOL)
人々の生活の質の向上についての評価基準。物質的な豊かさだけではなく、認知的・感情的・行動的な要因などを含め、総合的に評価された生活の質のこと。[参照元に戻る]

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